長崎異聞 37
音曲が止むと、空気が固い。
息が詰まる程、緊張がある。
左右に五人、背後に三人か。
この同田貫で何人を貫くか。
橘醍醐に焦りはなく、ただ間合いのみを計っている。
異国の声が響いた。
その館の主らしい、その一声で堂内が凍り付いた。刺すような毒気のある視線が霧散した。手は鯉口を切りかけていた。
醍醐は撓めていた腰を戻し、呼吸を整えた。
眼鏡を掛けて大層顔色の悪い、老境の男が寄ってきて、何事かをユーリアに囁いていた。当家の家人のようである。それで彼女は醍醐の軍服の袖を引いた。
「執事の方です、ご案内くださるそうです」
その晩餐会の席を抜けると、背の高い回廊となる。その飾り灯の下を足早に抜けた。
邸外には天蓋付きの馬車が用意されていた。
体裁のいい厄介払いであろう。むしろ居心地悪い晩餐会に臨席するのは苦痛であり、籠を開かれた文鳥の思いがする。
「申し訳ありません、私がご制止するべきでしたが動転してしまい・・」
「いえ、拙者の不徳に依るものです。ユーリア殿には落ち度は御座らぬ。むしろ貴女こそ故郷の味を愉しむこと能わず、ご勘弁ください」
「いえ残念ながら、故郷の味ではありません」
醍醐には欧州の知識はさほどもない。
瑞西と仏蘭西までの距離など知らぬ。
増して語学や宗教など知る由もない。
御者が着座して、石畳を進み始めた。
「それにしても御身の異国語には舌を巻きます」
「お恥ずかしい。私の瑞西では三か国語は操れるものです。私は通詞としてはまだまだ不適格ですね」
大通りの左手に大聖堂があり、馬車が蹄を響かせて脇を擦り抜けていく。
刃のような尖塔が幾つも立ち、彼の眼には天守閣にも見える。事が起こればあれも砲火に砕くこともあるのだろうか。
詮無いことよの、と醍醐は呟いた。
翌朝の事である。
居留地の寄宿舎で目覚めた。
食堂に降りていくと、長机に村田蔵六が座っていた。
手には紅茶のカップを持っている。飾り気のない白皿にはチーズとハムが乗っていた。恐らくは彼女の手業であろう。しかしながら蔵六が匙で食べているのは、明らかに冷豆腐である。
醍醐が正面に座ると、胡麻塩頭を掻いて、さも嬉しそうに笑った。
「貴君、ご苦労であった。法外の利を齎してくれた」
意味が分からず、机に乗り出した。
「何のことで」と声に怒気が混じる。
「今朝早く、門司・・東マルセイユより書簡が届いた」
乱暴に開封したのだろう、砕けた赤い封蝋がこびり付いた封書をぱさりと食卓に置いた。
「貴君が居合抜きして両断した手袋な。ダルボン家の紋章付きだったそうな。不敬であるとして、正式に同家より当方に抗議文が参った」
嫌味か、皮肉か、瞞しか。
「正式にな、目付に充当する上官が出頭しろと。つまり儂の事だ。これも僥倖なり。これでこの目であの要塞を確認できる」
どれもこれもこの策士の掌の上で踊っているようだ。お道化た眼の色で、ひょいひょいと竿を立てる仕草を見せる。
「釣りでもしていると思ったか。あれで目分量の測量をしていたのよ。内部に入れて貰えればそれで良し」
「警固は誰がするので」
「貴君では先方も難かろう、なに丸菱の誰かに頼むよ」
それは剣呑、と言いかけた。
私にも同席させて下さい、とユーリアが紅茶差しに細い指を絡めて現れた。
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