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長崎異聞 35

 幻の如き街である。
 夜の無い街である。
 電気カンテラが石畳の両側に並び立ち、昼間に類する程の光で埋め尽くされている。街区の建物はどれもが美麗な色彩に彩られ、堅牢な石造基礎に鋳造された窓枠にも手抜かりはない。
 馬車の客車に連座している。
 木軸に鉄輪輪がここまで跳ねるとは。背後に畳んだ幌がその度に金属質の耳障りな音を立てて、馬車は通りを駆けて行く。
 洋風軍服が窮屈ではあるが、それが正装であれば醍醐には拒めるものではない。要は警固に支障さえ無ければ良し。今後洋装には慣熟も必定やも知れぬ。
 然しながら車窓の風を受けて、隣座するユーリアからの華香に血が騒ぐのを感じる。
 
 正式な招待客はユーリアである。
 蜜蝋で封じられた招待状を、仏役人が持参した日の事である。
 Marseille de l'Est、つまりは門司租借地より舞踏会に招かれたのだ。
 査証申請に先方へ届け出た書面には、村田蔵六は医者という身分に留めてあるという。然しながらいぶかしくも思われているようだ。
「こちら側にも間諜スパイが潜んでいるのだろうよ」と蔵六はにべもない。
「まあ見ておくといい。街を歩き居留民の顔を見た上で、事変あらばそれを銃砲の業火に砕けるか。それで将校の気骨が養われる」
 橘醍醐の同行は、ユーリアが頑固に主張した。
 彼女独りで租借地へ赴かせるのは剣呑である。
 仏役人は、猫の髭の如き細髭が、肉突きのよい頬にぴんと張った年嵩の男だ。下腹がでっぷりと革帯ベルトの上に乗っており、ご丁寧に剣らしき物が吊ってあった。
 彼のまくし立てるような言をユーリアは掌を立てて押さえ、「問題ない。護衛は当方で手配する、と言っています」と皆に訳してくれた。
 それは首尾悪しと醍醐も考えた。
 それから暫く、押し問答が続く。
 彼女は醍醐の肩を押して、一歩前に押し込んだ。
“この方は私の護身の刃でございます。侍でございます。守り刀もなくては婦人の節を護れませぬ。それとも貴方もサーベルや短銃なしに、こちらに出向いているのですか?”
 その時には、仏語に混じり侍という単語のみが醍醐の耳に届いた。
“Ce que femme veut, Dieu le veut.” 〈女の言い分は、神の言葉〉
 役人はその気勢に呑まれ、そう呟いたという。
 
 煌びやかな席である。
 談笑らしき声が絶えることもない。
 醍醐は黙して、注視を流している。
 奇妙な音律を奏でる楽団が隅に控えている。
 円卓席が設置されており、四名乃至ないし五名にて着座している。
 いずれも彫りの深い顔立ちで、指先で鼻を摘まんで伸ばしたような顔をしている。そして浪曲でも唸っているかの如き言葉を使い、それをユーリアが返している様子を、舌を巻いて見るのみである。
 その円卓の隙間を、給仕人が気忙しく駆け回っている。その誰もが髪を覆いに隠し、化粧っけのない娘達であり好感が持てる。
 卓には分厚い卓布が敷かれており、所々に錘が掛けられていた。飾り皿の左右に肉叉フォーク肉刀ナイフが整然と置かれている。どの食器も銀細工であろう、凝った意匠の彫金が施されている。
 もう物怖じはしない。
 異国の饗宴作法テーブルマナーについても身に付けている。
 暫し陸奥邸に寄宿しておらねば、あの作法の鍛錬なくば、この席に座すことも儘ならぬであろう。
 一同の衆目が自らに向かっている。
 敵意にも能わぬ蔑視が首筋に痒い。
 
 
 

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