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長崎異聞 36

 憫笑びんしょうが満ちている。
 意を隠して蔑んでいる。
 その空気を糊塗ことするように楽団が、緩い音律を奏でている。
 彼らの含み笑いには通詞は要らぬ。
 それに気づいたユーリアが殊更に会話をしてくる。その柳眉が曇っているのも、心を痛める侮言の程度が推し量れる。傷心の彼女の日本語が出るたびに、臨席の初老の男が渋面をしている。
 ふと漏れる陰口にも通詞は要らぬ。
「何、貴女が気に病むことは御座らぬ。意味は解さずとも毒気は肌身に通じ申す」
 武辺者で口下手の、橘醍醐の方で気遣いするくらいだ。
 それを臨席の老獪な男が睨み上げてくる。
 皿の交換に給仕女メイドが脇にきて、お侍様ですのと小声で口添えた。侍女にあたる彼女らには金髪碧眼は滅多に居らず、清人か日本人らしい肌身をしていた。
 その瞬間である。
 額の禿げあがり、耳元のみに白髪が残る臨席の男の眼がぴくりと動いた。
 見るからに貴族の風体で、軍服にも似た蒼い礼服を着用している。胸元に幾つも下がる勲章が栄誉を示すものだということを、醍醐ですら了解している。
 その男が立席し、居丈高に給仕女を叱り飛ばした。平手でも打とうかという激烈さであった。
 醍醐はこの館の主人でも現れて、仲裁に入るかと考えた。奉公人の不手際は、主人がその責を負うものだからだ。
 が、誰も動こうとはせず、かつ会話も途切れることなく談笑は続いていた。それは奇異な事象ではなく、かの横暴は極々見慣れた常態なのである。
 事実、他の給仕女たちの手が止まる事はない。
「此奴は何を怒っているのか」とユーリアに囁いた。
「当家の使用人でありながら、仏蘭西語を用いなかっ・・・」
 醍醐も堪らず立席した。
 最期まで聴く手間も惜しい。
 そうして両者の間に割って入った。
 無論、男は血が昇って赤ら顔となり、蓄えた髭に泡が付くほど吠えかかった。その赤鬼に醍醐は静かに語る。
「まずご当家所属の以前に、この娘の血脈は日の本で血で御座ろうよ。謂わば御国の赤子せきしである。御無礼と受け取るのではあれば其れ迄であるが、この者の言は拙者を饗応しようとての真心が成したもの。ここは平に寛恕かんにょなされよ」
 その言い分をユーリアが通詞能うか。
 しからばこの御仁が辛抱堪忍能うか。
 果たして彼は左手で手袋を外し、それを振りかぶった。
 その段に至り、周囲の美麗な衣装の異国人が立ち上がる。ユーリアさえ色を成して、いけません、それを受け取ってはと叫んだ。
 だがしかし。
 鞘走りの音も響かず。
 裂帛れっぱくの微音も届かず。
 白蛾が舞うが如く、音も密やかにその手袋は次々と堕ちた。
 宙を舞ったそれが瞬時に両断されるのを、碧く、蒼く、翠で、灰色の、一同の瞳が釘付けになって注視する。しかもそれが稲妻が疾走したかの如く速さ、刃のきらめく光すら掴めぬ間であるのを知る。
 その瞬間には白刃は一閃し、既に鞘に収まっている。
 遠目であればその無作法で無頼な未開人は、僅かに腰を落としただけにも見えたであろう。
 じわりと醍醐は赤鬼に向かい、一歩を踏み出した。
 正面に寄せ手が、背後に搦め手が回る音が満ちる。
 厄介事を増やしてしまったと醍醐は胸中で呟いた。
 

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