比喩について考えてみる

いまさらという気もしますが、比喩についてすこーしだけ考えてみることにしました。とは言っても、あくまで詩人として、というより、自分がどのように詩のなかで比喩を使っているか、という、自分と比喩の関係性についてです。

まず比喩には、直喩、隠喩、換喩、提喩がありますが、今回は直喩と隠喩について。詩において私が使う比喩は、もちろんこれら全てがありますが、換喩と提喩は日常生活でもよく使われますし、どこか慣用句的になっているところがあります。あえて詩のレトリックとして取り上げることはないかな、と思います。

直喩と隠喩ですが、一般的には、隠喩のほうが高尚だという印象があります。マニエリスム系の一派の間では、詩で直喩を使うことに猛反対されます。たしかに、直喩も日常会話のなかでしばしば見られます。それに対して隠喩を日常のなかで使うことはほとんどなく、これこそ文学的レトリックだと言えるかもしれません。

ところが、私自身の詩においてはどうかと言いますと、私はほとんど隠喩を使わず、使う比喩といえば直喩ばかりです。「〜のような」という言い回しがよく出てきます。

詩においては特に、いかに斬新で新規性のある隠喩を使うことができるか、というのは、大きな評価点となる風潮があります(とはいえ、最近の日本の詩では、隠喩が少なくなってきたような印象がありますが)。確かに、隠喩こそが詩の醍醐味、と言えるかもしれませんし、私自身も隠喩を見ると「すごいな〜、良い比喩だな〜」と思うことがあります。

では、そもそも詩において直喩や隠喩を使うのはどういった効果を期待しているのでしょう。直喩や隠喩の根底にあるのは類似性や類推です。たとえば、Aという現象や物事、概念を説明するのに、用いる言語のなかにそのAを表す単語がない場合(このようなことは多々あります。言語というのは、感覚的なもの以外を表現するのに適していません)、私たちは、Aと類似性のあるものを代わりに使って表現します。これが、直喩や隠喩となるわけですが、この時に「〜のような」とすると直喩、「〜のような」を使わなければ隠喩となるわけです。

直喩の場合、「〜のような」と書かれるので、読み手はそれが直喩だとすぐに分かります。例えば、「墓守りの彼は目を伏せ/耐えるように目尻を震わす」(自作の詩の一部)と書かれていると、目尻を震わせている理由=耐えている、ではない、これはたとえとして書かれているだけだから、まるで耐えているような震え方をしているだけであって、実際には、何も耐えているわけではない、ということが分かります。
ところが隠喩となると、その性質上、それが喩えなのか実際なのかの区別はつきません。「いやいや、隠喩は現実的な表現をしないから、それが喩えかどうかなんてすぐに分かるよ」と、言われるかもしれませんが、そうなんです、ここに問題があるんです。

例えば、「地球に暗い色味の幕が降り/夏の広さと淋しさが/突然遠くの幻となり/家のなかまで、灰色になっていった」(自作の詩の一部)と書かれていると、地上世界でこのようなことは起こりえないと誰もが思うでしょうから、「あ、これは隠喩だな」と読み手は思うわけです。ですが、私はこの一節を、比喩として書いたわけではありません。これは、現実の光景の一部として実際にこうなったんだ、という感覚を書いているのです。だから、これは隠喩ではないのです。これが、「私は詩において直喩は使うが隠喩は使わない」と言うところの意味です。読み手が「比喩なのか現実なのか」の区別がつくように、私はほとんど隠喩を使わないようにしています(ゼロではないですが)。私の詩において、「〜のような」と書かれていないところは全て、現実の光景として体験してほしいのです。

詩において描かれるのは、もちろんですが地上世界の感覚的なものばかりではありません。ですが、言葉というのは地上世界の感覚的なものしか表現できませんから、それを超えるものを表現しようとすると、どうしても比喩を使わざるをえません。その意味では、上記ふたつ目の私の一節も、比喩であると言えます。しかし、隠喩として書いているわけではありません。隠喩はおそらく、概念世界のパズルのようなもので、ある種の直観的な発想力が必要となりますが、私の場合、実際に自分が視た光景をそのまま言葉で表現しているだけなので、方法論としては、隠喩ではなく直喩的だと思っています。

最後に、象徴の技法について、少しだけ触れておこうと思います。象徴というのは隠喩のひとつと言えるかもしれませんが、私はそう考えてはいません。隠喩が概念世界のパズルであるなら、象徴はその名の通り、概念の記号一般化と言えるでしょう。例えば「秤」という言葉には、象徴で言うなら「正義」という意味合いがあります。「秤」と「正義」というふたつの概念が、記号として一致しているわけです。ここには正確性があります。象徴は気まぐれで生まれたわけではないからです。それに対して隠喩は、もっと自由に概念同士を組み合わせることができますから、正確性は落ちるにしても、想像の幅は広がります。ですがもちろん、それゆえ、隠喩の理解は場合によっては困難となってしまいます。

「夜のなかで目覚め、そして/光の内で呼吸する/それは流れる川の上/あなたと共にいる、ということ」(自作詩)
この4行詩は、隠喩でも直喩でもなく、象徴で書いています。1行目「夜のなかで目覚め」の夜は、1日のリズムとしての昼と夜ではなく、感覚の夜のことを表します。夜は感覚の夜であると同時に、超感覚の昼だからです。「光の内で呼吸する」は、その通りの体験であり、隠喩ではありません。呼吸といえば空気ですが、感覚器官を持たない場合、空気ではなく光を、呼吸するように自身と世界との間で循環させるのです。「それは流れる川の上」は、復活したキリストが湖の上に立っていた場面から来ています。1、2行目を受けてのこの行だとすれば、ここで書かれていることはキリストとの関連だと分かります。そして最終行の「あなたと共にいる、ということ」のあなた、とは、もちろんキリストのことです。この詩は外的感覚のことを書いているわけではないので、「共にいる」という語句は、私の隣ではなく、私の内、という意味合いになります。パウロの「もはや私は死に絶え、私のなかのキリストが語る」を象徴しています。

さて、長々と書いてきましたが、詩における比喩とはいったい何なのか、どういう効果があるのか、を見てきました。おそらく詩人それぞれの意味合い、効果があるのだと思います。私は以前から「詩に隠喩は必要ない。直喩と象徴があればいい」と言ってきました。確かに、レトリックで言えば、直喩は隠喩に劣り、隠喩は象徴に劣る、と言えるかもしれませんが、それは地上的なものを描く時にのみ当てはまるのだと思います。詩の内容が宇宙的になればなるほど、隠喩は影を潜め、象徴と直喩が、その表現のための道具となってきます。
詩は読み手の数だけ解釈があっていいし、そこが良いところだ、とよく言われますが、私は、あまりこの意見に賛同できません。何かを伝えようとして表現するわけですから、自分の感じたものを、できる限り正確に読み手に受け取ってもらいたい、と思うことは、許されざることではないでしょう。そしてそのために、比喩や象徴は存在します。これらは文章を良く見せるための単なるレトリックではなく、できる限り正確性を上げるための方法論だと思うのです。しかし誰も、日常会話でみかんのことを「太陽のような果物」とは言いません。そう言ってしまうと、「みかん」を伝えたいのにその正確性が落ちてしまうからです。そうです、比喩や象徴は、地上世界を表現する際には正確性がぼやけてしまうのです。しかし超地上世界を表現するのであれば、できる限り正確に描写するために、どうしても比喩や象徴を使わざるをえません。ではこの時、果たして隠喩を使う意味合いはあるでしょうか。見た目には隠喩のような形になっていたとしても、それを隠喩と呼ぶのは正確でしょうか。ここにはもう、直喩と隠喩の区別はなくなり、ただ、「比喩」という表現だけが残るような気がします。

詩の評論がされる際、やはり比喩をはじめとするレトリックのことはよく取り上げられます。詩を形式のみで語るのはナンセンスですが、しかしほとんどの場合、その詩の内容部分(詩人の視た光景)は置き去りにされている気がします。あるいは、そのような光景が抜け落ちている詩が多いのかもしれません。それはとても残念なことだと思っています。私たち詩人が、地上と宇宙を繋ぐ架け橋となり、そこに、比喩や象徴を仕えさすことができれば、もっともっと、日本の詩は素敵なものになっていくのではないでしょうか。

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