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卒業

今年で35歳になる。
大人だ。
年齢的にはもう完全に大人、になってしまった。

いったい自分がいつ「大人」になったのかよくわからないし、ちゃんと「大人」をやれているのか、自信なんて全然ない。
もっと言えば、「何者」かになれた気なんて、全くしていない。

それでも、働いて、結婚して、この社会と日々やりとりをしている私は、世間から見れば、まあまあ「大人」としての恰好はしているのだと思う。

『少女は卒業しない』という映画を観た。
4人の女子高生たちの、卒業式の前日と、その当日の2日間を描いた物語だ。
観終わってから数日経つが、この「少女は卒業しない」というタイトルが、ずーっと頭から離れない。あのタイトル画面の映像が、いまだに頭の中いっぱいに映し出されたままになっている。

「卒業する」って、「卒業」って、いったいなんなんだろう。

そこには、今ある関係に別れを告げて、新しい世界へと進んでいく、前向きな成長という意味合いが、多分に含まれているように思う。

しかし学生の場合、その「卒業」は、本人の意志とは関係なく、外から強制的に「卒業させられる」ものでもあるだろう。
友人と、恋人と、学校と、社会と、そしてこれまでの自分自身と、別れという名の「折り合い」をつけていくことが、つけることができるのが、大人とされているような、それを急かされているような、そんな気がする。

そういう、大人になるため、大人であるための「良きこと」とされるいろんな折り合いをつけないと、私たちは前に進んではいけないのだろうか。
人の心というものは、「卒業」というラベルをペタッと貼りつけて、きれいに片付けられるようには、そんなふうにはできていないんじゃないだろうか。

少女は卒業しない。
卒業するが、しない。別れを告げるが、別れない。
楽しかった記憶とも、死ぬほど辛かった思いとも、簡単に折り合いをつけてしまうのではなく、ずっとずっと、ずっと覚えたまま、そのまま、進む。

そうして年齢を重ねていったその先に、もしかしたらいつか本当の意味での「卒業」が待っているのかもしれないし、いやいや「卒業」なんてこと自体が、はなから存在していなかったんだと思える日が、やって来るのかもしれない。

映画を観て、すっかり「大人」になってしまったと思っていた心が、学生時代の、あの「こども」でいられた最後の瞬間に、一気に引き戻されてしまった。
あの頃、自分の体中を内外から包んでいた、焦燥感や、不安や、いらだちや、たよりのなさ。
それでいて、マグマのように煮えたぎった、ぐちゃぐちゃのエネルギーのような、あの何か。あの体温。あの景色。

大人になった、そう思っていた仕切りのようなものが、急に取っ払われたような気がした。
私の中にもまだ、あの頃の私が卒業しないまま生きていて、今の私をまるごと肯定してくれているように感じるのだ。
それは背中を支えてくれるでも、撫でてくれるでもない、「卒業しない」という、あたたかいが、少したよりない、しかしとてつもなく大きな、肯定だ。

映画で描かれた彼女、彼らが、どうか幸せな人生を生きて行ってほしいと願うこの気持ちは、きっとあの頃の自分にも向けられている。

今年で35歳になる。
大人だ。
まだまだ卒業しない、大人だと思う。

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