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「いのちを預かる」ということ

最近、自分の仕事がいかに重たいものかを感じさせる出来事があった。
なんてない、子どもとの会話だった。

夕方から雨が降った日、プールの授業をしていたクラスへ声をかけに行った時。
その時、見学者である子どもが2人いた。
2人とも、傘を持っていなかったので、私が持ってきていた傘で、3人仲良くぎゅうぎゅうに入って校舎へ戻った。(今思えば、傘を何本か持っていけばよかった…)

そんな中、傘に入っていた子どもの1人が、「先生、背中めっちゃ濡れてる」と話した。
「そりゃあ、大切な2人の命が大事よ、風邪引いたら大変」と答えると、「そんなん、自分の命が一番大切なんちゃう?」とその子どもが答える。
「確かに自分の命は大切だけど、それよりも大切なんよ、2人がね」というと、
「俺のママと同じこと言うやん」
と答えた。

そこから、「あぁ、この子は大切にされている」と思ったのと同時に、「私はいろんな人にとっての、いのちより大切な存在を預かる仕事をしているんだ」とも思った。
大学生の頃から、分かっているつもりになってたけど、全然分かっていなかった。
教師という仕事が、いかに責任が重たいものかを。
この仕事についてもう何年か経つのに、今更知ってしまった。
いや、知ることが出来てよかった。
知らなければ、慣れた頃にいい加減な仕事をしてしまうところだったかもしれないから。

私は職務上、大きなけがをした子どもや体調が悪くなった子どものお迎えをお願いすることが多い。
そんな時、たまに見かけてしまう。
「こんなことで迎えに来なきゃいけないんですか?」と話す保護者に。
1年目の頃は、判断を誤ることもあったかもしれない。
でも、軽くみて重症だったら大変だ、という意識のもと、担任の先生や管理職の先生と相談した上での判断だ。
現に、子どもは大きなけがやしんどさで不安になっている。
この不安は、教師だけでは取り除けないのだ。
言葉には表さないけど、態度で明らかに面倒臭そうに迎えにくる保護者もいた。
その時の子どもの後ろ姿を見るのが、とても切ない。心がギュッと締め付けられる。

だから、上に書いたように、子どもが親に、確かに大切にされている様を見て、私は心の底からホッとした。
同時に、嬉しくなってしまったのだ。
教師は、どんなに子どもを大切に思っていても、親の代わりになれない。
親のような愛情を送ることは出来ない。
だから、安心したのかもしれない。
「よかった、この子は大切にされている」と。

「いのちを預かる」ことは、「誰かのいのちより大切ないのちを預かる」こと。
当然、責任は重たい。
だけど私は、この仕事が好きだ。
子どもが、昨日出来なかったことが、今日出来ていたりするのを見るのが何より嬉しい。
出来るようになって喜んでいる子どもの様子を見るのが、何より嬉しい。

親のような愛情は注いでやれないけど、親とはまた違った形で私は愛情を注ぎたい。
これからも。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
さわてんでした。

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