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【鳥取寺社縁起シリーズ】「因幡堂縁起絵巻」(22)

 【鳥取寺社縁起シリーズ】第二弾として、「因幡堂縁起絵巻」詞書部分の注釈・現代語訳をnoteで連載いたします(月1回予定)。

 〔冒頭の写真は、鳥取県立博物館『はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』の表紙(「因幡堂縁起絵巻」の一場面)です。〕


■寺社縁起本文・注釈・現代語訳

__________________________________  本文(翻刻)は、『企画展 はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』〔鳥取県立博物館/2008年10月4日〕の巻末「鳥取県関係寺社縁起史料集」のものを使用しています。

 ※「因幡堂縁起絵巻」の概要は第1回をご覧ください。

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【 第十六段 】
仁治元年の春の比、或大臣家のひめ君わ
つらひ給ことあり御腹ふくれて大事なり
けれは御めのとうつまさに参籠して祈
申けるに七日に満する夜の夢想に御つし
の内より我ちからもさる事なれとも高辻烏丸
に三國一の醫師おはしますそれへ申へし
名をは因幡堂と号すとしめし給へは御乳母
父の大臣に此由を申すさらはとて軈此寺に
参籠有ける七日にまむする夜の程に女房
達につけもあり※給はす御腹たをやかに
なりて目出かりけれは弥信心を致して毎
月に薬師の像をつくり供養シ奉り給事
おこたらすと申つたへ侍けり

※ テキストの本文(翻刻)は「あり」となっているが、絵巻本体の写真では「あえ」か。

→仁治*元年の春の比、或る大臣家の姫君わ
づらひ給ふことあり。御腹ふくれて大事なり
ければ御乳母うづまさ*に参籠して祈り
申しけるに七日に満ずる夜の夢想に御厨子
の内より「我が力もさる事なれども高辻烏丸
に三國一の醫師おはします。それへ申すべし。
名をば因幡堂と号す」と示し給へば御乳母
父の大臣に此の由を申す。「さらば」とて軈て*此の寺に
参籠有りける七日に満ずる夜の程に女房
達に告げもあえ給はず*御腹たをやかに*
なりて目出たかりければ弥々*信心を致して毎
月に薬師の像をつくり供養し奉り給ふ事
おこたらずと申しつたへ侍りけり。

〈注釈(語の意味)〉
・仁治(にんじ・にんち)…鎌倉中期、四条・後嵯峨天皇朝の年号。延応2年7月16日(1240年8月5日)改元、仁治4年2月26日(1243年3月18日)寛元に改元。
・うづまさ…(古くはウツマサ)京都府葛野(かどの)郡の地名。今は京都市右京区の一地区。映画撮影所がある。同地の広隆寺は聖徳太子の時代(7世紀後半)の建立。
*軈(やが)て…そのまますぐに。
・あえず…(動詞の連用形に係助詞「も」を添えた形に付く。「あへねば」の形をとることもある)…するや否や。…も終わらぬうちに。中世以後この用法だけに固定化して使用された。 ※告げ/も/あえ〔敢え〕/給は/ず
・たをやか…物の姿・形がしなやかである。やわらかい感じである。
・弥々(いよいよ)…ますます。

〈現代語訳〉
仁治元年の春の頃、ある大臣家の姫君が
ご病気になることがあった。御腹がふくれて大変なことで
あったため姫君の乳母が広隆寺に参籠してお祈り
申し上げたところ七日の満願の夜の夢想に御厨子
の中から「私の力もちろんであるけれども高辻烏丸
に三国一の医師がいらっしゃる。そちらへ申し上げるがよい。
名を因幡堂と称す」とお教えくださったので御乳母は
(姫君の)父の大臣にこの旨を申し上げる。「そうであるならば」と言ってそのまますぐにこの寺に
参籠した七日の満願の夜の時分に女房
達にお告げになるやいなや御腹がしなやかに
なって喜ばしいことであったのでますます信心をしまして月
ごとに薬師の像を作って供養し申し上げなさることを
欠かさなかったと語り伝え申しあげたということだ。
                  〔「因幡堂縁起絵巻」(22)おわり〕

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