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【鳥取寺社縁起シリーズ】「因幡堂縁起絵巻」(24)

 【鳥取寺社縁起シリーズ】第二弾として、「因幡堂縁起絵巻」詞書部分の注釈・現代語訳をnoteで連載いたします(月1回予定)。

 〔冒頭の写真は、鳥取県立博物館『はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』の表紙(「因幡堂縁起絵巻」の一場面)です。〕


■寺社縁起本文・注釈・現代語訳

__________________________________  本文(翻刻)は、『企画展 はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』〔鳥取県立博物館/2008年10月4日〕の巻末「鳥取県関係寺社縁起史料集」のものを使用しています。

 ※「因幡堂縁起絵巻」の概要は第1回をご覧ください。

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【 第十八段 】
建長三年五月法性寺の田中殿の御所に
侍ける女房関東へ下向しけるか上洛の
時大井河にて大水出て前後もんみへぬ※1
程に大雨ふりてともの者一人もなかろ※2り
けれは彼女房心ほそくかなしき事たと
へむかたなくおほして弥當寺帰依の志あさ
からすさるによりていまは最後そかしと思
にも薬師をねむしける事ふた心なかり
しに俄に若き僧来て馬のみつきに取
つきてことゆへなく河を引渡しぬきく川
の宿にて悦へき由思ていつくの人にて
おはするそと問けれは我は高辻烏丸因幡
堂邊に有よし仰せられてかきけつ様にうせぬ
いよいよかたしけなく覚てそのとききたりけり※3
きぬを當寺の戸張にかけ奉りける侍※4とかや

※1 テキストの本文(翻刻)は「もんみへぬ」となっているが、絵巻本体の写真では「もみえぬ」で、この部分「も見えぬ」となるか。
※2 絵巻本体の写真では「ろ」なし。
※3 テキストの本文(翻刻)は「り」となっているが、文法的におかしい。絵巻本体の写真では「る」か。
※4 テキストの本文(翻刻)は「奉りける侍」となっているが、文法的におかしい。絵巻本体の写真では「奉られける」か。

→建長*三年五月、法性寺*の田中殿の御所*に
侍りける女房、関東へ下向しけるが上洛の
時、大井河*にて大水出て前後も見えぬ
程に大雨ふりてともの者一人もなかり
ければ彼の女房心ぼそくかなしき事たと
へむかたなくおぼして弥々當寺帰依の志あさ
からず。さるによりて「いまは最後ぞかし」と思ふ
にも薬師を念じける事ふた心なかり
しに俄に若き僧来て馬のみづきに取り
つきてことゆへなく河を引渡しぬ。きく川*
の宿にて悦ぶべき由思ひて「いづくの人にて
おはするぞ」と問ひければ「我は高辻烏丸因幡
堂邊に有る」よし仰せられてかきけつ*様に失せぬ。
いよいよかたじけなく覚えてその時着たりける
きぬを當寺の戸張*にかけ奉られけるとかや。

〈注釈(語の意味)〉
・建長(にんじ・にんち)…鎌倉中期、後深草朝の年号。宝治3年3月18日(1249年5月2日)改元、建長8年10月15日(1256年10月24日)康元に改元。
・法性寺(ほっしょうじ・ほうしょうじ・ほうそうじ)…京都市東山区本町にある浄土宗西山禅林寺派の寺。山号は大悲山。延長三年(九二五)藤原忠平(貞信公)が創建。開山は尊意。関白藤原忠通とその子の九条兼実が出家後寺内に住み法性寺入道と称した。本尊の二七面四二手の千手観音立像は国宝。〔日本国語大辞典〕
・田中殿の御所…白河法皇(1053~1129)が応徳3(1086)年譲位と同時に、鳥羽に造営した院御所を鳥羽離宮といい、全域180町に及ぶ広大なものであった。白河院没後、鳥羽法皇(1103~56)も引き続き28年間院政を行ったが、その時建てられたのが田中殿(御所)であった。田中殿は皇女八条院(1136~1211)の御所として法皇が造り、殿内には御堂(金剛心院・阿弥陀堂等)が附属していた。〔京都市歴史資料館 情報提供システム フィールド・ミュージアム京都〕
HU021 鳥羽離宮田中殿跡 (kyoto.lg.jp)
・大井河〔=川〕…静岡県中部、駿河・遠江の境を流れる川。赤石山脈に発源し、駿河湾に注ぐ。長さ168キロメートル。
・みづき→みづつき〔※水付・七寸〕…轡(くつわ)の部分の名。手綱を結びつける轡の引き手。〔日本国語大辞典〕
 ※承と〝革と空〟で構成された字による二字の熟語も存在する。
・きく〔=菊〕川(きくがわ)…静岡県南西部、金谷町の地名。小夜の中山の東側にあり、中世には東海道の宿駅として繁栄した。〔日本国語大辞典〕
・かきけつ…〔「かき」は接頭語〕さっと消す。かき消す。
・戸張(とばり・とはり)〔=帷・帳〕…室内の仕切りや外界との隔てに鴨居(かもい)から垂れ下げる布。垂れぎぬ。

〈現代語訳〉
建長三年五月、法性寺の田中殿の御所に
お仕えした女房が、関東へ下向したところが上洛の
時、大井川で増水して前後も見えない
くらいに大雨が降って供の者も一人もなかっ
たのでその女房の心細く悲しい思いはたと
えようがなくてますます当寺への帰依の心は深く
なる。そうしたわけで「もはやこれで最期ね」と思う
につけても薬師への祈願に偽りはなかっ
たが突然に若い僧が来て馬のくつわに取り
付いて何のことはなく川を引き渡した。菊川
の宿で(このような)喜ばしい状況に「どこのどなたで
いらっしゃいますか」と尋ねたところ「私は高辻烏丸の因幡
堂あたりにいる」との旨をおっしゃってふっと消え失せてしまった。
ますますもったいない思いで(女房は)その時着ていた
衣を当寺の帷にお掛け申し上げたとかいうことだ。
                  〔「因幡堂縁起絵巻」(24)おわり〕


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