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【鳥取寺社縁起シリーズ】「因幡堂縁起絵巻」(20)

 【鳥取寺社縁起シリーズ】第二弾として、「因幡堂縁起絵巻」詞書部分の注釈・現代語訳をnoteで連載いたします(月1回予定)。

 〔冒頭の写真は、鳥取県立博物館『はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』の表紙(「因幡堂縁起絵巻」の一場面)です。〕


■寺社縁起本文・注釈・現代語訳

__________________________________  本文(翻刻)は、『企画展 はじまりの物語ー縁起絵巻に描かれた古の鳥取ー』〔鳥取県立博物館/2008年10月4日〕の巻末「鳥取県関係寺社縁起史料集」のものを使用しています。

 ※「因幡堂縁起絵巻」の概要は第1回をご覧ください。

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【 第十四段 】
建暦二年春の比卿の三品の候人兵庫の
入道の娘の東のあしおさなくてはしりありく
程にたをれて足をくしかしてなをらすそ
はへかたふきてかたわなりけれは父の入道せめての
事かなとて祈精のために當寺の房に七日参籠
有けるに彼あしたち所になをりぬ其時入道帰
敬渇仰更たくひもなかりけりさて年月を経て
後鳥羽院の御時三条堀川より九条まて焼亡
のありけるに御堂の火いまた消さるに我宿所をこ
ほちわたして先仮御堂に立けり其後承久
の乱の時戦場にむかふとて甲胃をよろい兵杖を
帯しなから當寺に参詣して如来を拝し奉
りおなしく師匠に對面してまかりむかひき如来
の御利益にや侍りけむ別の事なく帰洛して
二度御堂にまいりけり其後は月ことに参詣おこ
たらす侍けるとかや也※

  絵

(奥付)
  万延二酉年仲春写之
        因幡堂
         岡本主計
             正美所持

※ テキストの本文(翻刻)は「とかや也」となっているが、絵巻本体の写真では「か」が「賀」、「や」が「也」で、「とかや」か。

→建暦*二年、春の比、卿*の三品*の候人*兵庫の
入道の娘の左の足おさなくて*はしりありく*
程に倒れて足をくじかしてなおらず。そ
ば*へかたぶき*てかたわ*なりければ父の入道「せめての
事かな」とて祈精のために當寺の房に七日参籠
有りけるに彼の足たちどころに治りぬ。其の時、入道帰
敬*渇仰*更にたぐひもなかりけり。さて年月を経て
後鳥羽院*の御時、三条堀川より九条まで焼亡
のありけるに御堂の火いまだ消えざるに我が宿所をこ
ぼちわたし*て先仮御堂に立てけり。其の後、承久
の乱*の時、戦場にむかふとて甲胃をよろい*兵杖*を
帯しながら當寺に参詣して如来を拝し奉
りおなじく師匠に對面してまかりむかひき。如来
の御利益にや侍りけむ、別の事なく帰洛して
二度御堂にまいりけり。其の後は月ごとに参詣おこ
たらず侍りけるとかや。

〈注釈(語の意味)〉
*建暦(けんりゃく)…承元5年3月9日(1211年4月23日)改元、建暦3年12月6日(1214年1月18日)建保に改元。
*卿(きょう)…①八省(中務(なかつかさ)・式部・治部・民部・兵部(ひょうぶ)・刑部(ぎょうぶ)・大蔵・宮内)の長官。②三位、および参議以上の官人。公卿(くぎょう)。また、これらの官位の人の名の下に付ける尊称。③事に当たる際に、長として選ばれた者。上卿(しょうけい)。〔小学館 全文全訳古語辞典〕
*三品(さんぼん)=三位(さんみ)…位階の第三等。また、その位の人。正三位・従三位を併せいう。相当の官は大納言(だいなごん)・中納言・近衛大将(このゑのだいしやう)・大宰帥(だざいのそつ)・女御(にようご)など。〔角川古語大辞典〕
 ※「卿の三品」とは、当時の親王の一人か?(筆者の実力では確定できず。)
*候人…中世、蔵人(くろうど)と同じく殿上に祗候し、御膳に侍し、宿直を勧めた人。こうじん。
 ※殿上=殿上人(てんじょうびと)…昇殿を許された人。四位・五位以上の一部および六位の蔵人が許された。
 ※祗候=伺候・伺公(しこう)…貴人のおそばや神前にお仕えすること。(祗候の場合は元来「つつしんで」の意が加るが、同様に用いられることが多い。)
*おさなくて=をさなくて…未熟で。かぼそい。
*ありく…歩く。
*かたぶく…かたむく。斜めになる。
*かたわ…身体に完全でないとことはあること。また、その人。
*帰敬(ききょう・きけい)…仏に帰依してうやまうこと。
*渇仰(かつごう・かつぎょう)…人の徳を仰ぎ慕うことを、のどの渇いた者が水を求めるのにたとえた語。
*後鳥羽院=後鳥羽天皇…鎌倉前期の天皇。高倉天皇の第4皇子。名は尊成(たかひら)。1198年(建久9)譲位して院政。1221年(承久3)北条義時追討の院宣を下したが失敗して隠岐に配流(承久の乱)され、隠岐院と称される。その地で没し、顕徳院と追号。その後、種々の怪異が生じ、怨霊のたたりとされ、改めて後鳥羽院と追号された。歌道に秀で、新古今和歌集を勅撰、配流の後も業を続けて隠岐本新古今集が成った。(在位1183~1198)(1180~1239)
*こぼちわたす〔毀渡〕…一面にとりこわす。すっかり破壊する。特に、中世、建築物を解体して運び渡すこと。 ※こぼつ(古くはコホツと清音)
*承久の乱…承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討滅を図って敗れ、かえって公家勢力の衰微、武家勢力の強盛を招いた戦乱。
*よろう…鎧を着る。甲冑(かっちゅう)をつけて武装する。
*兵仗(ひょうじょう)…太刀・弓矢などの武器。

〈現代語訳〉
建暦二年、春の頃、卿の三品に伺候した兵庫の
入道の娘の左の足はかぼそくて走ったり歩いたりする
時には倒れて足をくじかせてまっすぐに立たない。一
方へ傾いてしまい障害を持つ身であったので父の入道は「精一杯の(できる)
事であることよ」と言って祈願のために当寺の房に七日参籠
したところ娘の足はたちまち治ってしまった。その時、入道は仏に帰依して
その徳を仰ぎ慕うことはまったく並ぶものがなかった。さて月日が経って
後鳥羽院の御治世、三条堀川から九条まで焼失
したことがあったが御堂の火が依然として消えないため(兵庫の入道は)自分の家をとり
壊して第一に仮御堂に用立てた。その後、承久
の乱の時、戦場に向かうといって甲胃を身にまとい武器を
所持した状態で当寺に参詣して如来を拝み申し
上げ同様に師僧に対面してから都を出て東へ向かった。如来
の御利益でございましょうか、大事なく帰京して
再び御堂に参上した。その後は毎月参詣を怠
たらないで仏にお仕えしたとかいうことである。

                  〔「因幡堂縁起絵巻」(20)おわり〕

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