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ヘタウマの時代(2024)


ヘタウマの時代
Saven Satow
May, 10, 2027

「子どものように描くには一生涯かかった」。
パブロ・ピカソ

 1976年、『ガロ』4月号に『ペンギンごはん』という奇妙なマンガが掲載される。原作はコピーライターの糸井重里、作画はイラストレーターの湯村輝彦である。マンガ界のアングラとも言える同誌は個性的な作品に閉められているが、その中でもこれは異彩を放っている。シニカルでアイロニカルな内容もさることながら、絵があまりに下手だったからである。しかし、1980年代、この稚拙に見える絵が「ヘタウマ」としてブームを巻き起こすことになる。

 1970年代、テレビ番組が念力の実演を扱うなどオカルトがブームで、それを反映したマンガ作品も少なくない。ただ、当時のマンガ界は劇画の時代である。各少年誌は、競うように、写実主義的な絵のマンガを掲載している。絵の上手さの進化はすさまじく、池上遼一が一世を風靡し、大友克洋がデビューしたのもこの時期である。

 こうした状況の中で子どもの描いたような絵のマンガが登場したことは意外である。けれども、これも時代の求めということは確かだ。それは同時期のロック・シーンが示している。

 70年代を迎え、ロックはプログレやフュージョンを始め高い技術に基づく洗練され、芸術性を追求する流れが大きくなる。クラシックやジャズに接近し、ロックの可能性を拡張したものの、アイデンティティが揺らぎ、次第に行きづまりを見せるようになる。

 そこに登場したのがパンクである。技術的には決して高くないけれども、そのノイジーなエネルギーはロックの生《き》の魅力を再発見させ、音楽シーンを活性化させる。と同時に、スタグフレーションにより社会に閉塞感を覚えていた英国の若者に熱狂的に歓迎され、その後、世界的に広がりを見せている。

 『ペンギンごはん』の登場はこうした状況と無縁ではない。それは進化し続ける上手い絵に対するアンチテーゼである。閉塞感のある時代において世界は不条理と感じられる。その身もふたもない話を描くには、整った写実的な絵ではなく、プリミティブなものがふさわしい。

 美術史では方法論としての稚拙さは、パブロ・ピカソを代表にしてすでに展開されている。マンガのヘタウマはそれと少々異なる。日本のマンガは言葉への依存度が高く、アメコミと違い、表現に記号を用いる。そのため、重要なのは物語で、絵は多少下手でもかまわない。

 その作品コンセプトを表象するのであれば、むしろ、下手な絵の方が望ましい。それは面白い新たなコンセプト作品を提示できるのなら、画力のない人でもマンガを描けることを意味する。そうした絵は個性的で魅力的だとして「ヘタウマ」と呼ばれるようになる。このように下がったハードルを越えたぎこちない稚拙な絵が80年代にブームを巻き起こす。

 1980年、『ペンギンごはん』シリーズは『情熱のペンギンごはん』として単行本化され、メジャー化する。ヘタウマはマンガのみならず、イラストにも拡張し、B級文化やいびつな世界などのコンセプトを表象する際に用いられている。渡辺和博の『金魂巻』(1984)がその好例である。

 80年代は、70年代と違い、好景気の時代である。残業どころか、「24時間戦えますか」のフレーズが流行したように、休日もなく組織人として仕事に邁進することが讃えられる。また、何事もブランド化が進み、そのヒエラルキーによって社会的優劣を決めつける風潮も強まる。ヘタウマはこうした流れにさりげなく「そんなに頑張ってどうするの?」や「ブランドに振り回されてどうするの?」と異議を申し立てる。こういったアイロニーが80年代にヘタウマが広がりを見せた理由だろう。

 1990年、青木雄二が『ナニワ金融道』の連載を始め、稀に見る下手な絵で社会におけるゼニをめぐる欲望の姿をリアルに描く。だが、それはヘタウマではない。7年に亘る連載期間が示す通り、現代日本社会の似姿の表現だ。アイロニーは瞬間的な落下なので、持続しない。だらだらと続く平成不況の下、ヘタウマは定着したものの、同時代的衝撃性を失ったのも無理からぬことである。
〈了〉

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