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イマジネーションとインセンティブ(2012)

イマジネーションとインセンティブ
Saven Satow
Jul. 25, 2012

「知識には限界があるが、想像力は世界を包みこむ」。
アルベルト・アインシュタイン

 東京電力の料金値上げ申請に対して、世論のみならず、キャスターやコメンテーターからも厳しい声が上がっている。公的資金が投入されているのに、もっとコスト意識を持てないのかというわけだ。けれども、それは無理な話である。東電には競争相手がいないので、コストを削減する動機づけがないからだ。コスト・カットに励むように、世論が地域独占の禁止やさらなる電力自由化を霞が関・永田町に圧力をかける必要があるだろう。

 これまでも、いわゆる親方日の丸体質の組織に対し、コスト意識を持つことを道徳規範のように要求する同様の意見がマスメディア上で展開されている。しかし、コスト意識はその削減をするインセンティブがあって初めて持てるものだ。

 「ニュー・パブリック・マネジメント(NPM)」が思ったよりも成果を挙げないのもこうした理由からである。1980年代半ばから、英国やニュージーランドで、民間企業における経営手法などを公共部門に適用し、効率化・活性化を図るNPMが実施される。日本においても、経済財政諮問会議がNPMに基づいて、競争原理や成果主義などを導入し、より効率的で高品質の行政サービスの提供を提案している。

 しかし、民間の発想の導入と言いながら、NPMにはインセンティブが欠如している。市場経済は、得をしたい、あるいは損はしたくないという損得勘定が合理的思考を導き出すことを前提にしている。それを欠いたならば、経済学的発想と見なすことはできない。

 企業には利益を追求する具体的な目的がある。コスト削減が生産性あるいは採算性の向上につながれば、売り上げが伸び、社員に待遇の改善がもたらされる。彼らにはコスト削減するインセンティブがある。

 一方、公的機関は、住民の福祉の充実や暮らしを守るなど目的が抽象的である。成果主義は、当然、成り立たない。生産性や採算性の向上が組織の目的を達成するわけではない。こうした機関はコスト意識を持つ理由がない。

 警察署の交通課の警察官を考えてみよう。彼らは署全体よりも自分が属している課の方に愛着も忠誠心もあるだろう。課のメリットになるためであれば、率先してコスト削減に励むに違いない。しかし、アイドリングストップをこまめに行い、燃料費を減らした結果、翌年度の交通課の予算が縮小されたのでは元も子もない。その代わりに、署内での交通課の発言権が増すなど特典がなければやる気が出ない。インセンティブがないので、彼らにはコスト・カットに向かう必要性がない。なお、これはあくまでたとえ話である。

 しかし、そのツケを消費者や納税者に回す組織に対して、もっと禁欲的になるべきだと批判の声が上がるのも当然である。経済のグローバル化により一般の民間企業は厳しい国際競争を強いられている。甘ったれていると言いたくもなるだろう。けれども、その民間企業にしても、労働者の待遇改善や環境対策の法的規制にはコスト増につながると難色を示す。社会的責任があると義務に訴えても、なかなか承知しない。彼らの禁欲的姿勢も売り上げの増加という快楽を目的にしてのことだ。

 人間は苦痛を避け、快楽を求める。この功利主義の前提とする人間像に向き合う必要があるだろう。禁欲主義的義務ではなく、快楽主義的動機付け、すなわちインセンティブが経済的イマジネーションを向上させる。こうしたイマジネーションとインセンティブの作用の適用は組織体だけではない。功利主義が教えてくれるように、個人も同様である。しかも、それは非常に深刻な領域においても効果を発揮する。

 災害は財産や住居、生命に直接的に影響する。被害を想像してつねに備えておくべきだ。にもかかわらず、ついつい想像力を働かせるのを怠けてしまう。

 目黒公郎東京大学大学院教授は災害対策にもインセンティブを活用すべきだと主張している。目黒教授によれば、対策において最も重要なのは「災害イマジネーション」である。これに基づいた「現状に対する理解力」と「各時点において適切なアクションをとるための判断と対応力」があって初めて実現する。人間はイメージできない状況に対する適切な心がけや準備などできないものだ。災害イマジネーションの向上にはインセンティブが効果的である。

 目黒教授は災害対策として非常に体系的な「目黒メソッド」を提案している。しかし、それに言及する余裕はない。ここでは、震災対策として有効だとされながら、進まない住宅の耐震補強に関する提言を紹介しよう。

 少々長いが、『内閣府広報ぼうさい』に掲載された同教授の「住宅の耐震化の課題とその解決に向けて」(2009)から「行政によるインセンティブ」を引用する。

 わが国は自然災害については自力復興を原則としています。しかし実際には、被災者には各種の公的支援がなされ、阪神・淡路大震災の際には、ガレキ処理や仮設住宅の建設・撤去、復興住宅の建設などをはじめとして、全壊住宅世帯には1世帯当たり最大で一千数百万円、半壊でも1000万円規模のお金が使われました。もちろん被災者個人のポケットに入ったわけではなく、彼らを支援するために使われたのです。これらの多くは建物被害がなければ費やす必要のないお金であり、その主な原資は公費です。
 そこで私は次のような「行政によるインセンティブ制度」を提案しました。持ち主が事前に自前で、耐震診断を受け補強の必要がないと評価された住宅、または耐震補強をして認定を受けた住宅(いずれも将来の地震時の公費の軽減のために自助努力したもの)が、地震によって被害を受けた場合に、損傷の程度に応じて、行政から優遇支援される制度です。この制度が実現すると、被災建物数が激減するので、行政は全壊世帯に1000万円を優に越える支援をしてもトータルとしての出費は大幅に減ります。
 自治体が事前にお金を用意して、市民に補強をお願いする現在の制度は、既存不適格建物数を考えると、都道府県単位で地震の前に数千億円規模の予算措置を必要とし、現実的ではありません。しかも建物の数を限って実施したところで、公的資金が導入された耐震補強家屋のその後のメンテナンスを確認するインセンティブが行政に発生しない「やりっぱなし」の制度であり、「悪徳業者」を生む土壌をつくります。さらに高額の補助金を出す自治体では、市民がなるべく高い資金援助を得るために所得が低くなるまで補強を先送りしたり、高い支援金を見込んだ業者による補強が他地域に比べて著しく高額になったりする問題が生じています。
 一方、私の提案する制度では、行政は事前に巨額の資金を用意する必要がありません。また発生する被害を激減させ、行政と市民の両者の視点から地震時の出費を大幅に軽減し、税金の有効活用を実現します。しかも契約建物の耐震性を継続的に確認する仕組みが誘発され、住宅の継続的な品質管理に貢献します。さらに「やりっぱなしの悪徳業者」を排除し地元に責任あるビジネスをもたらし、地域の活性化に貢献するのです。
 この制度では、次に述べる「行政によるリバースモーゲージ」も有効です。経済的な理由から耐震補強できないという世帯を調べてみると、多くのケースでは「今キャッシュがない」だけで、土地付の住宅や生命保険などを持っている人も多い。この人たちには土地や生命保険を担保に、金融機関から耐震補強費を借りて、まず補強をしてもらう。しかし毎月の支払いが難しいので、その分を行政が公的資金から貸し出す。払い戻しはその世帯主が亡くなった際に一括して行えば良い。行政は貸し出すだけで、基本的な出費はないが、これにより市民の命が守られ、行政は地震時の出費を大幅に軽減できます。市民も損害を軽減できるし、仮に被災した場合も行政から手厚いケアを受けることができるのです。

 3・11のような経験したこともない自然災害にも対応できる想像力の育成は、言うまでもなく、困難である。また、実際、それを求めるのは酷だ。目黒教授の提言はそうした無理を要求しているわけではない。

 石原慎太郎東京都知事は「津波は天罰」と発言、心ある人々はその想像力の救いようのない貧困さに愕然とする。この放言を始めとして3・11はイマジネーションの重要さを実感する場面が少なからず見られている。想像力のさらなる向上が必要である。けれども、それを義務としてのみ求めるとしたら、忘却に陥ってしまう。想像力を発揮する動機づけが要る。それにはインセンティブの活用が効果的だ。

 もちろん、惨事を風化させないために、語り継ぐことは大切である。けれども、人はイマジネーションの発揮を怠ることが少なくない。だからこそ、寺田寅彦の『天災と国防』における警句も生まれる。「天災が極めてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の転覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう」。それを道徳的に咎めるだけではなく、災害対策が目的とするならば、想像力を働かせたくなるような動機づけの用意が先決である。

 こうした快楽主義の効用に気づいたのは、実は、経済学者ではない。功利主義に影響を与え、近代刑罰論の父と呼ばれるチェーザレ・B・ベッカリーアである。彼は、『犯罪と刑罰』(1764)において、犯罪防止の方法の一つとしてインセンティブを提案している。なお、「最大多数の最大幸福」はこのイタリア貴族の文句である。現在、インセンティブの法への導入は環境法制の中で生かされている。環境問題への対策は現実的に規制的手法だけでは不可能であり、インセンティブを利用した誘導的手法も採り入れられている。イマジネーションとインセンティブの利用は今後もっと広まっていくだろう。

 イマジネーションの向上はインセンティブによって促される。それを是認し、さらに利用することがよりよい社会の実現につながる。
〈了〉
参照文献
寺田寅彦他、『寺田寅彦随筆集第5巻』、岩波文庫、1963年
チェーザレ・B・ベッカリーア、『犯罪と刑罰』、風早八十二他訳、岩波文庫、1938年
目黒公郎、「住宅の耐震化の課題とその解決に向けて」、『内閣府広報ぼうさい』、2009年
http://www.bousai.go.jp/kouhou/h21/03/special_04.html

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