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クリスチアーネ、あるいはヘーゲルのアンティゴネ(6)(2020)

終章
 1830年7月27日、フランスで7月革命が勃発、1815年の王政復古で復活したブルボン朝は武装ほう起した市民により再び打倒される。革命は3日間で終わったが、その影響は欧州各地に伝播して革命運動を刺激、ウィーン体制を揺るがす。1830年代はウィーン体制の終わりを準備していく時代である。7月革命がそうであるように、3歩進んだかと思うと、2歩下がるという足取りであるけれども、時代は着実に前に進んでいく。しかし、ヘーゲルはその自由の発展の歴史を見届けることができない。

 1831年夏、ベルリンでコレラが流行する。コレラはもともとインドのベンガル地方の風土病であったが、19世紀に入ると、世界的な流行が何度か発生している。1826年から1837年まで続いた2度目の流行はアジアやアフリカ、欧州、南北アメリカにも広がっている。ヘーゲルは、夏休み中、コレラ予防のため、ベルリンから避難している。しかし、新学期が始まる事情により、流行がまだ収束していない街に戻らざるを得なくなる。帰京したヘーゲルは法哲学や哲学史の準備をしていたが、1831年11月14日にコレラが原因で死亡したとされている。

 哲学がその理論の灰色に灰色をかさねてえがくとき、生の一つの姿はすでに老いたものとなっているのであって、灰色に灰色ではその生の姿が若返りはせず、ただ認識されるだけである。ミネルバのふくろうは迫り来る黄昏に飛び立つ(Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug)。
(ヘーゲル『法の哲学』)

 けれども、ヘーゲルのバイオグラフィーの伝える症状を見る限り、コレラという死亡診断には疑いを持たざるを得ない。ヘーゲルは、11月10日、講義を用意し、特に不調を訴えていない。ところが、13日の午前中に突然、胃の不快感を覚え、激しい嘔吐に襲われ、倒れている。重篤な状態が続くが、14日の午前中に回復を見せる。しかし、その後、容態が急変、黄昏を迎える頃に息をひきとっている。伝記の情報を要約すると、このような推移を辿っており、コレラ特有の症状が認められない。

 コレラはコレラ菌による感染症で、経口感染する。口から入ったコレラ菌の多くは胃液で死滅するものの、少数が小腸に達して爆発的に繁殖、多量のコレラ毒素を産出する。個人差はあるが、潜伏期間は5日以内である。発熱や腹痛はなく、1日に20回以上の激しい下痢に襲われる。それはしばしば白く、「米のとぎ汁」と呼ばれる。急速な脱水により、血行障害や血圧低下、頻脈、筋肉の痙攣、虚脱を起こし、死亡する。極度の脱水によって皮膚が乾燥してしわくちゃになり、「洗濯婦の手」や「コレラ顔貌」と呼ばれる特有の外観を示す。

 当時はまだコレラがコレラ菌を病原体にする感染症だと知られてはいない。けれども、コレラには特有の症状があり、診断が難しいとは言えない。もしかすると、当時としては61歳の高齢であるので、コレラ特有の老人顔と誤解したのかもしれない。それはともかく、現代の消化器系の専門医なら、コレラを死亡原因と下すことはないだろう。評伝の記述も漠然とし、既往歴や基礎疾患の有無を含め情報が少ないので診断は困難と思われる。ただ、成人には稀であるけれども、突発性胃破裂のような症例でさえある。

 死亡原因が何であれ、急死であったことは確かである。数日前まで講義の用意を進めるくらいに健康だった人物が突然亡くなってしまう。家族を含め周囲がまったく心の用意ができていなかったことは想像するに難くない。特に、クリスチアーネはそうである。兄の死からクリスチアーネの精神状態は急激に悪化していく。

 アンティゴネのように遺されたクリスチアーネは深刻な抑うつ状態に陥る。1831年12月、クリスチアーネは、主治医のカール・シェリングに勧められて、シュヴァルツヴァルト北部にある温泉街バート・タイナッハ=ツァヴェルシュタインにメイドと共に湯治療養のために滞在する。

 カール・シェリング(Karl Schelling)はヘーゲルのかつての親友フリードリヒ・シェリングの弟である。彼は、イエーナの医学生の頃、1801~02年にヘーゲル最初の講義を聴講した経験がある。ヘーゲルからの信頼も厚く、クリスチアーネの主治医にこれ以上の適任者はいない。安定期には兄を理解する彼の存在も大きかっただろう。カール・シェリングはクリスチアーネにとって人薬として効いたように思える。哲学者としての兄を学生のみで最初に見出した一人である。その頃に後の「ヘーゲル」になることを信じていたクリスチアーネにとって同志という思いもあったに違いない。自分の想いを理解してくれると主治医を信頼していたことだろう。

 加えて、時間も薬として、すなわち日にち薬としてクリスチアーネに作用したことだろう。人薬によって心が落ち着き、その環境が続くことで、時間がクリスチアーネを癒してくれる。1820年代のドイツの思想界はヘーゲルの時代を迎えている。ヘーゲルの正・反・合の弁証法は分裂の社会を統合して新しい時代を求める思想家にヒントを与える。「ヘーゲル」の名は、以後、永遠に記憶されるものとなる。クリスチアーネにとってそうした状況も心穏やかにできる環境である。薬物療法がない時代でも、人薬や日にち薬が患者の自己治癒を助けている。「真理をめぐる重要な点は、真理を実体でなく、主体としてもとらえ表現することである」(ヘーゲル)。

 しかし、この時の経過は思わしくない。ヘーゲルの急死はクリスチアーネにはどうやっても受け入れられない。生きる屍と呼んでしまいそうな生気のある表情のない顔から失せていたかもしれない。

 1832年㋁㏡、クリスチアーネは散歩中に街を流れるナゴールト川に入水する。その時のクリスチアーネはひどい抑うつ状態だったと伝えられている。クリスチアーネはそうして58歳の生涯を閉じる。

 抑うつ状態により現実検討能力が低下、自死に至ったと推察できる。兄の死が結果として希死念慮をもたらし、クリスチアーネに人薬はもはや見つからない。アンティゴネの運命を辿るほかないと思ったように見える。ヘーゲルの生涯が教養小説だったとすれば、クリスチアーネのそれは近代小説である。「死を避け、荒廃から身を清く保つ生命でなく、死に耐え、死の中でおのれを維持するものこそが精神の生命である」(ヘーゲル)。

 ヘーゲルは言うに及ばず、クリスチアーネ所縁の場所もストリートビューで確認できる。タイムトラベル・アプリではないので、現在の風景だけであるが、その雰囲気をイメージする手助けにはなる。バート・タイナッハ=ツァヴェルシュタインのナゴールト川の様子は東京の杉並区を流れる善福寺川のようだ。付近の住民しか知らないような川だが、荻窪の流域には日独伊三国同盟を決めた近衛文麿の邸宅「荻外荘」がある。その正門から西に直進すると、1分もしないうちに、善福寺川に突き当たる。その狭い河川敷から水面を覗きこむ時、こんな感じのところにクリスチアーネは入水したのかと胸が痛くなる。

 クリスチアーネは遺産の相続人としてヘーゲルの3人の息子を指名している。カール・ヘーゲルとイマヌエル・ヘーゲル、それにルードヴィヒ・フィッシャーである。しかし、ルードヴィヒが含まれていたことにヘーゲルの遺族は困惑する。ルードヴィヒはすでに亡くなっていたからだ。アンティゴネは大切な人の死後に人倫として振る舞わねばならない。ルードヴィヒも名誉回復されねばならないとクリスチアーネが考えていたように思える。ただ、へーゲルが遺したものの中にクリスチアーネからの手紙はない。現存するのは義姉マリーに宛てた3通だけである。

 歴史的評価の対象となる理論家の家族が研究される理由には、その思想形成過程や作品への影響を明らかにすることが挙げられる。しかし、クリスチアーネの場合は違う。ヘーゲルの思想ではなく、クリスチアーネの心を理解するためだ。190年近く前のケースであっても、それは今日にとって同時代的課題である。

 クリスチアーネは、人後半生、精神症状に苦しんでいる。そこで求めていたことはその苦しみをわかってほしいということだ。理解できないと責められたり、見下されたり、疎まれたりされ、孤独感がさらに苦しみを増す。自分には人間の尊厳など認められないのかと嫌悪感が生じる。本当につらいのはこの孤独だ。苦しみを理解していると共感されることで、孤独感が薄らぎ、癒される。心が通い合ったと感じられた時、苦痛がやわらいでいく。理解を示すことがその治癒につながる。同伴者としてわかろうとすること自体が自己治癒を助けてくれる。心と心が共鳴する時、そこに救いが見えてくる。精神症状に苦しみながらも、誰も理解してくれないという孤独感の中で一人味わってきた悲しみが薄れていく。アンティゴネとして生きたクリスチアーネについて文脈を知って語る時、その尊厳が回復され、辛さに耐え続けた心が救われていく。クリスチアーネはこの世にはもういない。苦しみ続けなくてすむように、理解していると語る。それはクリスチアーネだけでなく、精神症状の中で亡くなっていった人たちの心にも言えることだ。この世にはいないとしても、心理療法は終わらない。時代とは関係がない。それは永遠の弁証法である。
〈了〉
参照文献
石丸昌彦他、『精神医学特論』、放送大学教育振興会、2016年
糸川昌成、『臨床家がなぜ研究をするのか─-精神科医が20年の研究の足跡を振り返るとき─』、星和書店、2013年
加藤尚武他編、『ヘーゲル事典』、弘文堂、1992年
河合祥雄、『スポーツ・健康医科学』、放送大学教育振興会、2015年
小磯仁、『ヘルダーリン』、清水書院、2016年
齋藤高雅他、『中高年の心理臨床』、放送大学教育振興会、2014年
斎藤環、『「社会的うつ病」の治し方─人間関係をどう見直すか』、新潮選書、2011年
澤田章、『ヘーゲル』、清水書院、2015年
城塚登、『ヘーゲル』、講談社学術文庫、1997年
高橋正雄、『漱石文学が物語るもの―神経衰弱者への畏敬と癒し』、みすず書房、2009年
田城孝雄他、『感染症と生体防御』、放送大学教育振興会、2018年
長谷川宏、『新しいヘーゲル』、講談社現代新書、1997年
林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2009年
ホルスト・アルトハウス、『ヘーゲル伝─哲学の英雄時代』、山本尤訳、法政大学出版局、1999年
R・スペンサー他、『ヘーゲル』、 椋田直子訳、現代書館、1996年
ルネ・スムレーニュ、『フィリップ・ピネルの生涯と思想』、影山任佐訳、中央洋書出版部、1988年
ミゲル・デ・セルバンテス、『ドン・キホーテ』全6巻、牛島信明訳、岩波文庫、2001年
ソポクレース、『アンティゴネー』、中務哲郎訳、岩波文庫)、2014年
ジャック・ドント、『ヘーゲル伝』、飯塚勝久訳、未来社、2001年
ゲルハルト・プラウゼ、『天才の通信簿』、丸山匠他訳、講談社文庫、1984年ゲ
ハンス・フリードリヒ・フルダ、『ヘーゲル 生涯と著作』、海老澤善一訳、梓出版社、2013年
G・W・F・ヘーゲル、『精神哲学』上下、船山信一訳、岩波文庫、1965年
同、『世界の名著』44、中公バックス、1978年
同、『精神現象学』上下、樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー、1997年
同、『ハイデルベルク論理学講義』、黒崎剛帆他訳、MINERVA哲学叢書、2017年
エルヴェ・ボーシェーヌ、『精神病理学の歴史─精神医学の大いなる流れ』、大原一幸他訳、星和書店 、2014年
カール・ローゼンクランツ、『ヘーゲル伝』、中埜肇訳、みすず書房、1983年
Wikipedia(ドイツ語版)
https://de.wikipedia.org/

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