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昔ばなしの中のギャンブル(2016)

昔ばなしの中のギャンブル
Saven Satow
Dec. 04, 2016

「あれ松虫が鳴いている。やらなきゃよかったチンチロリン」。
いかりや長介『ドリフ大爆笑』

 珍しく、全国紙がそろってカジノ法案に反対を表明しています。2016年12月2日、安倍晋三政権は、審議日数わずか2日でカジノ法案を衆院委員会で強行採決しています。TPPやトランプ会談をめぐり安倍首相を擁護した御用メディアも今回は異を唱えています。完全な安倍政権の暴走というわけです。もっとも、暴走は大手メディアが権力監視の役割を果たさず、大目に見たり、ヨイショしたりするなど甘やかせたことが主因の一つです。

 カジノ法案に関して様々な問題点が指摘されています。その一つがギャンブル依存症増加の恐れです。賭博が依存症をもたらすことは、近代以前からすでに知られています。

 日本の前近代において賭博は規範的・法的に認められていません。時代劇でもよく描かれているように、江戸時代、ギャンブルは御法度です。当時の刑罰体系は複雑ですが、賭博には主には流刑や財産刑が科せられます。ただ、悪質なケースでは胴元が死罪になります。

 近世のみならず、日本史上最高の数学者とも言われる関孝和のプロフィールに不明の点が少なからずあるのも、賭博をめぐる事件が一因です。「算聖」は関家の跡取りとして養子を迎えます。ところが、この息子が博打に手を出し、お家が断絶してしまいます。

 西洋において確率論はギャンブルと関連して発展しています。しかし、関孝和に確率論の研究はありません。ですから、息子が博打を始めた理由に関孝和の成果の影響はありません。

 余談ですが、無視することを「シカト」という表現は花札に由来します。花札で10月の10点札「紅葉」に横向きの鹿の絵柄が使われています。「鹿の十(しかのとお)」が無視を表わす「シカト」に転じています。

 近世に生まれた昔ばなしにもギャンブルを扱う作品があります。昔ばなしは賭けを必ずしも否定していません。肝試しや知恵比べなどに賭けが用いられます。けれども、賭け事を決して認めません。

 昔ばなしのギャンブルの描き方はほぼ共通しています。当事者は男性です。博打にのめりこみ、仕事を二の次にしたり、家族をあまり顧みなくなったりして自ら災難を招きます。その際、身近な人も悪影響を被ります。けれども、母や妻など女性の家族が彼を許し、それによって反省して賭け事から足を洗い、やり直しを図ります。こうした流れです。

 その一つとして長野県に伝わる『またたび』を紹介しましょう。

 昔、長野の塩尻に、博打好きの若者が病気の母親と暮らしています。母が止めるのも聞かずに、悪い仲間と博打を明け方まで興じることもしばしばです。ある日、いつものようにすって午前様で帰宅すると、ぐったりした母を発見します。男はすっかり気が動転してしまいます。

 村には医者がいません。また、薬を買う金もありません。若者は隣のじいさまから「またたびの水を飲ませれば病気が治るかもしれない」と聞き、急いで山へ向かいます。けれども、その日に限ってなかなか見つかりません。ようやく、かもしか岩の下にまたたびを発見します。つるを切ってみましたが、水が出てきません。

 夕暮れが近づき、若者は焦ります。神頼みをしても、水は一滴も出ません。とうとう日が暮れてしまいます。その時、山のこだまのように、若者をねぎらう母の声が聞こえます。

 若者が急いで家に戻ると、母はすでに亡くなっています。若者は、持ち帰ったふくべ(ひょうたんの入れ物)にまたたびの水が一杯に入っているのに気がつきます。母の死を看取ったじいさまからまたたびの水は日暮れからよく出ると伝えられます。

 その後、若者は博打と縁を切り、所帯を持ちます。ある夜、妻に間に合わなかったことへの後悔の念をこめてこの話を聞かせます。妻は親孝行の思いに気づいて、やり直せたのだから間に合わなかったわけではないと言います。男は、それを耳にすると、少し笑顔を妻に見せるのです。

 昔ばなしは博打禁止という規範の理由を物語っています。それは、現代風に言うと、ギャンブルが依存症をもたらし、信頼とお互い様の人間関係、すなわち社会関係資本を縮小させるからということになります。

 前近代は個人主義ではなく、共同体主義の社会です。人々は、町や村という共同体があって、そこに個人が内属しているという認識を持っています。共同体内の絆が強くすることが大切です。

 ソーシャル・キャピタルは近年多くの分野で最も注目される概念の一つです。前近代のみならず、近代も諸制度が効率よく運用されるためには、信頼とお互い様の協力関係を前提にしていることが明らかになっています。

 ところが、ギャンブルは依存症によって絆より我欲を優先させてしまいます。博打は、今回負けても次回は勝てるかもしれないというポジティブな幻想により人を引きずり込みます。プレーヤーは分析的・システィマティックではなく、直観的・ヒューリスティックにゲームを思考します。丁が3回続いたから、次は半だろうといった錯覚が一例です。確実に儲けるのは同元で、プレーヤーではないというネガティブな現実認識はありません。依存症に陥れば、冷静な判断力が弱まりますから、この偏りが強くなります。

 昔ばなしは、現代同様、ギャンブルの大きな問題点が依存症にあると理解しています。依存症は冷静な判断力を低下させますから、ギャンブルが仕事や家族より優先されます。いずれも社会関係資本と関連しています。有形・無形の分かち合いがソーシャル・キャピタルへの投資になります。すると、絆への投資がおろそかになれば、資本蓄積は低下します。それは結びつきを弱めていきます。共同体のまとまりをバラバラに向かわせます。このように、前近代社会がギャンブルを禁止するのはソーシャル・キャピタルを減少させるからです。

 その上で、昔ばなしはギャンブル依存症からの回復に身近な人の愛情が決定的な効果を果たすと説いています。賭博の真の問題は社会関係資本お減少です。それからの回復はこのストックへの投資を身近な人が行うことが必要です。ギャンブルによって取り返しのつかない事態を招いても、身近な人が彼を決して見すてず、許し、やり直しを促したり、励ましたりします。彼はそれによって絆の大切さを改めて認知し、博打と縁を切り、依存症を克服していきます。

 昔ばなしのギャンブルに関する社会的メッセージは今日にもそのまま通用します。ギャンブルは依存症をもたらし、社会関係資本を減少させます。賭博に溺れたことで多重債務に陥ったり、家庭崩壊につながったりします。その依存症からの脱却は当人だけでなく、身近な人の支えが不可欠です。社会関係資本の増加をサポートするわけです。

 ギャンブルをめぐるこのような警告と知恵が昔ばなしを通じて日本社会に伝承されています。こうした言い伝えを顧みる時。発足以来社会を分断してきた安倍政権がカジノ法案に固執する体質もおのずと理解できるのです。
〈了〉

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