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『山猫』と地の塩(2006)

『山猫』と地の塩

Saven Satow
Apr. 10, 2006

「有陰徳者必有陽報」
『淮南子』

 民主党の代表選挙の際、小沢一郎候補は、映画『山猫』の科白「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない(We must change to remain the same)」を引用して、演説を締めくくっている。彼は、以前から、最も好きな映画としてバート・ランカスターとクラウディア・カルディナーレのダンス・シーンで知られるこの作品を挙げている。『山猫』は民主党の新代表の傾向を知らしめるのみならず、時代の変化に際することはどういうことなのかを語っている。

 『山猫(The Leopard)』はルキノ・ヴィスコンティ監督による伊米合作映画で、1963年の第16回カンヌ国際映画祭においてグランプリを受賞している。淀川長治は、『淀川長治映画塾』の中で、「『風と共に去りぬ』に負けない立派な映画」と絶賛している。欠点は、とても貴族に見えないアラン・ドロンのキャスティングくらいだろう。音楽担当は、フェデリコ・フェリーニの『道』やルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』、フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』でも知られるニーノ・ロータである。

 原作はジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ(Giuseppe Tomasi di Lampedusa 1896~1957)の小説『山猫(Il Gattopardo)』である。ただ、こちらの方がもう少し長く、老公爵の死後まで続く。作者は、小説の主人公同様、シチリアのパレルモの公爵家に生まれ、ダンテ・アリギエリやウィリアム・シェイクスピア、スタンダール、マルセル・プルーストを愛読し、いくつかの文学エッセイを執筆しているが、スタンダールからの影響が顕著なこの作品が唯一の長編小説である。彼が亡くなった後の1958年に出版され、戦後イタリアで最初のベストセラーになっている。

 舞台は1860年のシチリア島である。この時期のシチリアは激動している。反動的なウイーン体制の下、分裂していたイタリアで「統一運動(リソルジメント:Il Risorgimento)」が全土で起き、1843年以降、ジュゼッペ・マッツィーニによる共和国構想がイタリア南部で強く支持されている。

 その頃のシチリアは、ナポレオン・ボナパルト没落後の1816年に再興されたブルボン家のナポリ王フェルディナンド4世が興した両シチリア王国に属している。欧州各地で革命が勃発した「革命の年」とも呼ぶべき1848年初頭、フェルディナンド2世治世のシチリア島民も蜂起し、住民へ立憲議会制を与えることを国王に認めさせ、さらに、退位を宣言する。フェルディナンドはナポリ領内で反動派の支援を受け、同年9月、軍隊をシチリア島に送り、翌年5月にパレルモを降伏させる。

 しかし、1859年にフェルディナンド2世の子フランチェスコ2世が後を継ぐと、翌年、北イタリアがオーストリアの支配から解放された後、統一主義者のジュゼッペ・ガリバルディは1000人の義勇兵と共にシチリア島を征服し、61年、シチリアはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の新しいイタリア王国の一部となる。赤シャツ隊上陸前夜から始まる『山猫』はこうした歴史的・社会的激動を背景にした作品である。

 シチリア島で最も由緒ある貴族で、「山猫」の紋章を戴くサリナ公爵ドン・ファブリツィオ(バート・ランカスター)は、政治的変動にショックを受けつつも、以前と変わらぬ貴族としての生活を守り続けている。甥のタンクレディ(アラン・ドロン)はガリバルディに憧れて、イタリア統一運動に参加しているが、公爵は、価値観が異なっているにもかかわらず、革命派のその恐れを知らぬ若者に愛情を注いでいる。しかも、公爵の娘コンセッタも彼と結ばれることを願っている。

 そんなある日、サリナ家は田舎の別荘に出掛ける。一家が到着すると、村長のドン・カロゲロ(パオロ・ストッパ)が彼らのための歓迎会を催す。彼は抜け目なく時代の流れを見通して成り上がり、無教養で、品のない新興ブルジョアジーである。しかし、村長の娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)にタンクレディは惹きつけられ、タンクレディは、所属連隊に復帰後、公爵に手紙を送り、アンジェリカとの挙式の手配を懇願する。公爵夫人(リナ・モレリ)は彼を裏切り者と罵り、公爵も娘の傷心に胸を痛め、それ以上に、その縁組に貴族としての誇りが傷つけられるのを感じる。結局、わだかまりを胸の内に秘めながらも、身分違いの結婚を認める。

 大舞踏会が開かれ、アンジェリカは、その父親と違い、平民の娘と思えない気品を漂わせ、ドン・ファブリツィオも彼女の求めに応じてダンスをする。しかし、その大仰なダンスは見事だったとしても、場にそぐわない。それは大いなるデカダンスを体現している。貴族の時代は終わり、ブルジョアの時代が来ている。歴史は、一人の人間の思いとは関係なく、流れていく。公爵は自らの老いといずれ訪れる死を実感する。「山猫と獅子は退き、ジャッカルと羊の時代が来る。そして、山猫も獅子もジャッカルも羊も自らを地の塩と信じているのだ」。

 映画の世界は新イタリア王国成立の前である。しかし、統一後、シチリア島は産業発展からとり残され、大量の移民がアメリカ大陸へ渡り、マフィアの活動が活発化していく。統一後のイタリアにおける最大の政治問題は南部問題である。ヴィスコンティも映画『若者のすべて』(1960)でこの問題を扱っている。南部のルカニア出身のロッコとその兄弟が北部のミラノで苦悩し、挫折していく。重工業地域の北イタリアと一次産業を中心とする南イタリアの経済格差が一向に改善されていない。1960年代にはバノーニ計画によってターラント製鉄所やアウトストラーダが建設され、南部での重工業発展と社会基盤の整備を推進したが、格差が縮小しているとはいかに政府よりの人物であっても信じていないだろう。

 北イタリアは、現在、欧州でも最高の所得水準の地域の一つであるのに対し、南イタリアの失業率は北部の4倍に達している。与党の一翼を担う北部同盟はたいした産業もなく、北の税金を浪費し、腐敗と暴力に塗れた南部から北部は分離すべきだと主張している。

 けれども、「ジャッカルと羊の時代」、すなわち近代以前、シチリアは地中海の交通の要所としてさまざまな文化が入りこみ、独自の歴史を辿っている。紀元前4世紀、プラトンは、失敗するものの、シチリア島のシュラクサイの若き僭主ディオニュシオス2世を指導して哲人政治の実現を試みている。

 多くのシシリアンの作家がそうしたシチリアの独特な歴史を多方面から描いている。『山猫』は、後に、社会問題への視点が欠けているとレオナルド・シャーシャによって批判される。彼は推理小説『真昼のフクロウ』(1961)・『人それぞれに』(1966)でマフィアを告発し、『モロ事件』(1978)において関係者の膨大な書簡を読み解きながら、国家とテロの問題に切りこんでいる。さらに、ヴィンチェンツォ・コンソロは、1976年、同じ歴史的背景を用い、『反山猫』とも言うべき『無名水夫の微笑み』を発表している。しかし、いずれの作家の登場も『山猫』なくしてはありえない。戦後シチリア文学は『山猫』に対する批判として形成されてきたのであり、その意味で、この小説はドン・ファブリツィオとして位置づけられる。克服されるべき存在として、歴史や社会の変化におけるデカダンスとしてそれはある。

 『山猫』には、新旧や動静のコントラストが描かれているが、歴史的・社会的変化がそうであるように、それは単純ではない。表面的には、公爵は旧=静、タンクレディや村長は新=動を表わしている。しかし、新しい時代の流れに乗っている者の方が、むしろ、保守的な価値観や権威を欲している。タンクレディはガリバルディに貴族主義的な英雄を見出して統一運動へと身を投じ、アンジェリカへ貴族的な教養や立ち振る舞いを要求する。また、アンンジェリカの父ドン・カロジェロはこれからの時代は家柄ではなく、才覚だと見せつけながらも、貴族との血縁関係を喜んでいる。彼らは自分の旧さに無自覚である。

 一方、ドン・ファブリツィオは新しい時代の到来を認めようとしつつも、心の内ではその変化を嘆く。彼は「山猫と獅子」の時代の人間であり、「ジャッカルと羊の時代」には馴染めない。自分の旧さを自覚している。ただ、デカダンスとして、克服されるべき存在として生きざるをえないことを認知している。この認識においては彼は新=動である。公爵は、歴史の流れに対し、諦念と矜持をもって臨んでいる。公爵の科白の中の「地の塩」が示す通り、変化は塩辛いものである。決して甘美なものではない。

 旧=静を最も体現しているのは、映画ではあまり触れていないが、公爵の娘コンチェッタである。彼女は、父の死後、その憂いと嘆きを受け継ぎ、老いていく。

 淀川長治は、『山猫』を含め、ヴィスコンティの映画を「敗北の歌」と呼んでいる。確かに、『山猫』にはデカダンスが溢れている。「山猫と獅子は退き、ジャッカルと羊の時代が来る。そして、山猫も獅子もジャッカルも羊も自らを地の塩と信じているのだ」。この「地の塩」という意識が歴史の変化と共に生きるには不可欠なのだということを『山猫』は告げている。

 あなたがたは地の塩なのです。けれども、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられるのでしょう?もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
(『マタイによる福音書』5章13節)

 Vos estis sal terrae; quod si sal evanuerit, in quo salietur? Ad nihilum valet ultra, nisi ut mittatur foras et conculcetur ab hominibus.
(“Evangelium Secundum Matthaeum” V: xiii)

 You are the salt of the earth, but if the salt has lost its flavor, with what will it be salted? It is then good for nothing, but to be cast out and trodden under the feet of men.
(“The Gospel According to Matthew” 5:13)
〈了〉
参照文献
ランペドゥーサ、『山猫』、佐藤朔訳、河出文庫、2004年
岩倉具忠、『イタリア文学史』、東京大学出版会、1985年
淀川長治、『淀川長治の映画塾』、講談社文庫、1995年

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