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「縛られたプロメテウス」を演じられない日本(2006)

「縛られたプロメテウス」を演じられない日本
Saven Satow
Mar. 15, 2006

「自己犠牲をいとわない人間性でなければ、経営者になってはいけない 」。
稲盛和夫

 小泉純一郎内閣総理大臣は、就任以来、日本国内に対し改革に伴う痛みに耐えることを口にしています。けれども、言い出した首相自身は痛みに耐えているとは見えません。特に、外交では、痛みがどういうものなのかさえ知らないような振る舞いをしています。

 靖国問題によって、東アジア諸国との外交関係は停滞を続けています。にもかかわらず、小泉首相によれば、日本は将来のアジア共同体でリーダーシップを発揮するつもりでいるのです。

 確かに、アジアにおいて、日本にはリーダーシップが求められています。しかし、それは自己主張ではないでしょう。むしろ、自己犠牲です。

 それはアイスキュロスの悲劇『縛られたプロメテウス』におけるプロメテウスの姿です。プロメテウスは、人間に火をもたらしたため、激怒したゼウスにより、ヘパイストスのつくった縛めでカウカス山の山頂に縛りつけられ、鳥に肝臓をついばまれる罰を下されるのです。「おお、尊きわが母よ、万物に等しく光をめぐらす大空よ、見届けたか。俺が不法の仕打ちを受けているのを!」

 フランスの思想家シモーヌ・ヴェイユは、『ギリシアの泉』の中で、プロメテウスを賞賛します。「プロメテウスは人間たちの師であり、彼らにすべてを教授した。ここでは、そうしたのはゼウスであると言われている。だからそれは同一のものだ。両者はただ一つのものなのだ。ゼウスが人間たちに叡智への道を拓いたのは、プロメテウスを磔刑に処することによってであったのだ」。

 日本は痛みに耐える自己犠牲のリーダーシップに徹することにより、アジアを「叡智への道」へと導くことも可能なのです。しかし、小泉首相はこうしたプロメテウスの高潔な忍耐を理解できないようです。メディアが評価するほどではなく、この英雄を演じられる役者の力量は彼にはないのでしょう。
〈了〉
参照文献
シモーヌ・ヴェイユ、『ギリシアの泉』 冨原眞弓訳、みすず書房、1998年

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