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『武蔵野』オンライン(2)(2020)

2 デジタル技術と読書
 新型コロナウイルス禍のため、巣ごもりの時間が長くなり、外出の機会が減ると、今、外の世界がどうなっているかとニュースが気になる。パンデミックの影響は広範囲に及び自分の想像を超えた出来事や事件が起きている。そうした大量の情報に接していると、それを処理できるように自分の頭の中を整理する必要に迫れる。処理能力を上回る情報量が入って来てはオーバーフローを起こし、根拠の曖昧な不安や楽観に囚われてしまう。
 
 頭の整理により自分の内の世界にも関心が向く。外の世界はインターネットを利用したサービスを通じて知覚することができるが、内の世界はそうはいかない。内の世界を対象化するために、文章に書いて組織化することがよい。そこで、一度読みたい、あるいは再度読み直したいと思っていた作品をあれこれ選んでみる。それは最近の作品ではなく、自分が生まれる前に発表されたものである。そうした作品は自分のような読者を想定していないから、読むには自身を相対化しなければならない。そういった自身の対象化は、自分を外から眺めるので、私が真に独立しているかと近代の基本原理の公私分離の再検という現代的政治思想の重要課題の一つにもつながる。ネットが能の拡張でプログラムを媒介して世界を知覚しているように、グローバル化した自己に内省を通じた具体性に基づく物語などない。関連を辿った抽象的構造の解剖がある。
 
 読書と言っても、視覚障害があるので、印刷物を自力で詠むのは困難である。そこで、デジタル技術の支援を受けることにする。現在、日本で入手できるPCやタブレット、スマートフォンにはアクセシビリティ機能が常備されている。リハビリテーション法508条によりそうした機能を常備していなければ、コンピュータ等を連邦政府に納入できないからだ。日本にはそうした法律はないが、米国のおかげでユーザーは恩恵を受けている。
 
 印刷物には歴史があり、ブックデザインの美しさを含め様々な良さがあることは認める。しかし、印刷物であるからこそ、読むことが難しい人がいることも確かである。視覚障がいや上肢身体障碍、読書障害、自律神経失調症による眼球を自由に動かせない症状など印刷物障害と呼びうる人たちは少なくない。
 
 付け加えると、官公庁や研究機関などが公共性・公益性の高い情報をPDFによって公開していることはいただけない。PDFは読み上げソフトに十分に対応していない。これでは公開の本来の目的である情報共有が限定されてしまう。
 
 テープの頃からオーディオブックはあったが、印刷物障害に電子書籍はありがたい。登場当時と比べて、電子書籍リーダーも性能が向上し、さまざまな機能が付加されている。ただ、ICTは横書きが標準尾なのだから、印刷物に近づける縦書きにこだわる必要はない。また、読み上げに関しては範囲特定の柔軟性など改善が望まれる。さらに、読書は読むだけで完結しているわけではない。書くことを前提にして読む場合もある。書く際には、その作品を思考において再構成する。それにはノートテイクが必要だが、著作権上の都合もあってか電子書籍はなかなかうまくいかない。なお、著作者人格権を保障しない発電子書籍の行人もいるが、彼らはたんなる機会主義者にすぎず、論外である。
 
 そのため、青空文庫は重宝している。同サイトはtxtやhtmlの拡張子のファイルで公開しているので、端末を選ばず、読み上げソフト等の使い勝手もいい。国木田独歩の作品も数多く公開されている。『都の友へ、B生より』や『武蔵野』も閲覧可能である。
 
 デジタル技術の進歩は、アクセシビリティ機能だけでなく、新たな読書体験ももたらしている。デジタル技術が小道具として小説上で扱われるのみならず、文学体験が拡張される。特に、近年の地理情報を含め環境の可視化の進化は驚嘆するほかない。前近代の読書は音読や素読であったが、近代のそれは黙読へと移り変わる。この変化は共同体主義の前近代から個人主義の近代への移行とパラレルである。新しき読書は、アクセシビリティ機能やオンライン・サービスを利用して行われるから、個人主義に立脚しながらも協同主義であり、協読と呼べる。現代社会は社会関係資本が注目される共生の時代で、それに対応している。文文字を詠んだり、それを音声として聞いたりするだけではない。文学作品も登場する場所についてオンライン・サービスを通じて知覚経験することができる。
 
 こうした知覚経験が付け加わるとしても、文章表現の魅力が損なわれるものではない。映像は個別的・具体的対象を映し出すが、一般性・抽象性を扱うことができない。「林」:を映像は表現することは不可能である。描くとすれば、それはある個別的・具体的な「林」であって、一般的・抽象的なそれではない。その際、送り手のみならず、受け手も「林」と了解するための社会的な共有認識に基づいていなければならない。ただ、読書体験が変われば、創作法も影響を受けることは間違いない。
 
 日本近代文学のフォーマットが確立したのは日露戦争以後である。その代表が1906年3月に島崎藤村が発表した『破戒』だ。1898年の『武蔵野』は日本近代文学の形成期の作品である。それは文学の創作・鑑賞がまだ近代文学のものになっていなかった時期だ。そうした文学作品を協読することの意義は小さくない。
 
 『武蔵野』をこの9月に読み直そうという動機は、その作者が近代日本における最も代表的な感染症によって亡くなっているからだけではない。東京の荻窪に昭和から~住み、吉城寺・三鷹・武蔵境駅を利用しながら、『武蔵野』を実際の地理と重ねた読み込んだことがなかったと気づいたからだ。外出が減らなければ、この考えも浮かばなかったに違いない。もちろん、読み進め、それについて書くにつれて、思索が広がっていくことだろう。武蔵野を歩く時は、道を選んではいけないのだから、どこへ行くかわからなくて当然だ。
 
 iPhoneを取り出し、起動したGoogle Earthで「武蔵野」を検索すると、東京都武蔵野市の衛星写真が表示される。Google Earthは太陽光の電磁波の反射を利用する受動型リモート・センシングで、衛星自体がエネルギーを放つ能動型ではない。画像は夜間ではなく、昼間である。武蔵野市は、東京のJR中央線の駅で言うと、吉城寺・三鷹・武蔵境の辺りである。これらの駅は杉並区にある西荻窪駅と小金井市にある武蔵小金井駅の間にある。三鷹駅は南口は三鷹市だが、北口は武蔵野市に属しており、武蔵野署もその方面にある。Google Earthの表示画像は住宅が密集しているように見える。画像の下に次のような説明が示される。
 
武蔵野市
日本の市
 
市武蔵野市は、東京都の多摩地域東部に位置する市。
人口は約15万人。
ウィキペディア
 
面積
10.98km2
人口
14.47万人(2015年)国際連合
都道府県
東京と
大学
亜細亜大学、成蹊大学、日本獣医師生命科学大学
 
 このような定量的なデータが表示される。しかし、これではまったくイメージがわかない。武蔵野市の具体的・個別的な描写を通じてその風景が想像できるというものだ。
 
 国木田独歩は、『武蔵野』の最終の第九章において、武蔵野の人間の営みについて次のように描写している。なお、Wibdows10やiPhoneに常備されている読み上げソフトがどのようにテキストを読み上げるのかを想像してもらうために、ルビを併記したテキストファイルを青空文庫より引用する。
 
 かならずしも道玄坂《どうげんざか》といわず、また白金《しろがね》といわず、つまり東京市街の一端、あるいは甲州街道となり、あるいは青梅道《おうめみち》となり、あるいは中原道《なかはらみち》となり、あるいは世田ヶ谷街道となりて、郊外の林地《りんち》田圃《でんぽ》に突入する処の、市街ともつかず宿駅《しゅくえき》ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈《てい》しおる場処を描写することが、すこぶる自分の詩興を喚《よ》び起こすも妙ではないか。なぜかような場処が我らの感を惹《ひ》くだらうか[#「だらうか」はママ]。自分は一言にして答えることができる。すなわちこのような町外《まちはず》れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎《いなか》の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹《ほうふく》するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点《とくてん》をいえば、大都会の生活の名残《なごり》と田舎の生活の余波《よは》とがここで落ちあって、緩《ゆる》やかにうず[#「うず」に傍点]を巻いているようにも思われる。
 見たまえ、そこに片眼の犬が蹲《うずくま》っている。この犬の名の通っているかぎりがすなわちこの町外《まちはず》れの領分である。
 見たまえ、そこに小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分からぬ声を振立ててわめく[#「わめく」に傍点]女の影法師が障子《しょうじ》に映っている。外は夕闇がこめて、煙の臭《にお》いとも土の臭いともわかちがたき香りが淀《よど》んでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車《からぐるま》の轍《わだち》の響が喧《やかま》しく起こりては絶え、絶えては起こりしている。
 見たまえ、鍛冶工《かじや》の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。鉄蹄《てってい》の真赤になったのが鉄砧《かなしき》の上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った。月が家並《やなみ》の後ろの高い樫《かし》の梢まで昇ると、向う片側の家根が白《し》ろんできた。
 かんてら[#「かんてら」に傍点]から黒い油煙《ゆえん》が立っている、その間を村の者町の者十数人駈け廻わってわめいて[#「わめいて」に傍点]いる。いろいろの野菜が彼方此方に積んで並べてある。これが小さな野菜市、小さな糶売場《せりば》である。
 日が暮れるとすぐ寝てしまう家《うち》があるかと思うと夜《よ》の二時ごろまで店の障子に火影《ほかげ》を映している家がある。理髪所《とこや》の裏が百姓で、牛のうなる声が往来まで聞こえる、酒屋の隣家《となり》が納豆売《なっとううり》の老爺の住家で、毎朝早く納豆《なっとう》納豆と嗄声《しわがれごえ》で呼んで都のほうへ向かって出かける。夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、蝉《せみ》が往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃《すなぼこり》が馬の蹄《ひづめ》、車の轍《わだち》に煽《あお》られて虚空《こくう》に舞い上がる。蝿《はえ》の群が往来を横ぎって家から家、馬から馬へ飛んであるく。
 それでも十二時のどん[#「どん」に傍点]がかすかに聞こえて、どことなく都の空のかなたで汽笛の響がする。
 
 読み上げソフトは必ずしも漢字を正確に読んでくれない。Windows10による礼を二つ挙げよう。「世田ヶ谷街道」は「よたがたにかいどう」、「臭《にお》い」は「しゅうにおい」とそれぞれ読み上げる。だから、読み上げられる文章を頭の中でトップダウン処理により理解する必要がある。読み上げソフトによって文章を理解するためには、あらかじめ多くの知識を習得しておき、それを利用して補正して再構成しなければならない。
 
 この「武蔵野」は現在の武蔵野市だけを指すわけではない。後に述べる通り、武蔵野台地に相当する地域がそれである。独歩が「道玄坂」や「白金」に言及しているのはそのためだ。
 
 ただ、「市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈しおる場処」というイメージを武蔵野市が持っていることは確かだろう。複数の企業が定期的に首都圏の「住みたい(駅)街」のアンケートを実施、ランキングを発表している。武蔵野市にある吉祥寺はそこで常にベスト3以内に入る。各社の理由の分析によると、閑静な住宅街と商業施設、自然環境がバランスよく、年齢に関係なく住みやすいとの評価を受けている。それはまさに独歩の描いた「武蔵野」のイメージに負っている。
 
 新宿以西の中央線沿線の人口が増加したのは1923年の関東大震災以後のことである。この時から武蔵野の雑木林の住宅地や商業地への変貌が始る。中央線に限らず、この災害を機に山手線の西外に人口が増加、東京は拡大していく。吉祥寺は、戦後、知識人の集う街として知られている。丸山眞男や竹内好未、清水幾太郎らが吉祥寺界隈に棲んでいる。三木武夫も吉祥寺にこだわったが、国会や首相官邸から遠すぎるとする睦子夫人の反対を受け、首相を目指すため、渋々と住居を映している。この吉祥寺は中央線沿線にある。原武史放送大学教授の『日本政治思想史』によると、東京圏の鉄道路線沿線にはそれぞれ固有の政治風土がある。中央線沿線は無党派的な戦後民主主義で、反米の色彩もある。反米の理由は中央線を横田基地に物資を運搬する貨物が通っているためと原教授は推測している。米軍の世界戦略の下で日本も間接的に戦争へ関与し、何が積まれているかわからない貨物がいつ大事故を起こすかもしれない。そういう思いを沿線住民は抱き、政治的に、戦後民主主義者であるけれども、反米的傾向を示している。吉祥寺はそうした中央線の政治風土も象徴している。
 
 独歩の言う「武蔵野」の全体像を把握するには、Google Earthよりも国土地理院が提供する3D地図が適している。STLファイルをダウンロード、3Dプリンタを用いて立体模型を作成すれば、「武蔵野」に触れることができる。文学作品を想像力のみならず、聴覚や視覚、さらに触覚でも今や経験することが可能である。そうした体験によって文学作品の新たな捉え直しにつながる。視覚障がい者であっても、「武蔵野」を体感できるというわけだ。
 
 「武蔵野」は武蔵野台地に重なるとされている。3D地図を用いるなら、台地を確認できる。『武蔵野』の第七章に登場する以下の地名を武蔵野台地付近の3D地図にプロットしてみよう。
 
 自分といっしょに小金井の堤を散歩した朋友は、今は判官になって地方に行っているが、自分の前号の文を読んで次のごとくに書いて送ってきた。自分は便利のためにこれをここに引用する必要を感ずる――武蔵野は俗にいう関《かん》八州の平野でもない。また道灌《どうかん》が傘《かさ》の代りに山吹《やまぶき》の花を貰ったという歴史的の原でもない。僕は自分で限界を定めた一種の武蔵野を有している。その限界はあたかも国境または村境が山や河や、あるいは古跡や、いろいろのもので、定めらるるようにおのずから定められたもので、その定めは次のいろいろの考えから来る。
 僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかしこれはむろん省《はぶ》かなくてはならぬ、なぜならば我々は農商務省の官衙《かんが》が巍峨《ぎが》として聳《そび》えていたり、鉄管事件《てっかんじけん》の裁判があったりする八百八街によって昔の面影を想像することができない。それに僕が近ごろ知合いになったドイツ婦人の評に、東京は「新しい都」ということがあって、今日の光景ではたとえ徳川の江戸であったにしろ、この評語を適当と考えられる筋もある。このようなわけで東京はかならず武蔵野から抹殺《まっさつ》せねばならぬ。
 しかしその市の尽《つ》くる処、すなわち町ずれはかならず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描くにはかならずこの町はずれを一の題目《だいもく》とせねばならぬと思う。たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂《どうげんざか》の近傍、目黒の行人坂《ぎょうにんざか》、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神《きしもじん》あたりの町、新宿、白金……
 また武蔵野の味《あじ》を知るにはその野から富士山、秩父山脈国府台こうのだい等を眺めた考えのみでなく、またその中央に包《つつ》まれている首府東京をふり顧《かえ》った考えで眺めねばならぬ。そこで三里五里の外に出で平原を描くことの必要がある。君の一篇にも生活と自然とが密接しているということがあり、また時々いろいろなものに出あうおもしろ味が描いてあるが、いかにもさようだ。僕はかつてこういうことがある、家弟をつれて多摩川のほうへ遠足したときに、一二里行き、また半里行きて家並《やなみ》があり、また家並に離れ、また家並に出て、人や動物に接し、また草木ばかりになる、この変化のあるのでところどころに生活を点綴《てんてつ》している趣味のおもしろいことを感じて話したことがあった。この趣味を描くために武蔵野に散在せる駅、駅といかぬまでも家並、すなわち製図家の熟語でいう聯檐家屋《れんたんかおく》を描写するの必要がある。
 また多摩川はどうしても武蔵野の範囲に入れなければならぬ。六つ玉川などと我々の先祖が名づけたことがあるが武蔵の多摩川のような川が、ほかにどこにあるか。その川が平らな田と低い林とに連接する処の趣味は、あだかも首府が郊外と連接する処の趣味とともに無限の意義がある。
 また東のほうの平面を考えられよ。これはあまりに開けて水田が多くて地平線がすこし低いゆえ、除外せられそうなれどやはり武蔵野に相違ない。亀井戸《かめいど》の金糸堀《きんしぼり》のあたりから木下川辺《きねがわへん》へかけて、水田と立木と茅屋《ぼうおく》とが趣をなしているぐあいは武蔵野の一領分《いちりょうぶん》である。ことに富士でわかる。富士を高く見せてあだかも我々が逗子《ずし》の「あぶずり」で眺むるように見せるのはこの辺にかぎる。また筑波《つくば》でわかる。筑波の影が低く遥《はる》かなるを見ると我々は関《かん》八州の一隅に武蔵野が呼吸している意味を感ずる。
 しかし東京の南北にかけては武蔵野の領分がはなはだせまい。ほとんどないといってもよい。これは地勢《ちせい》のしからしむるところで、かつ鉄道が通じているので、すなわち「東京」がこの線路によって武蔵野を貫いて直接に他の範囲と連接しているからである。僕はどうもそう感じる。
 そこで僕は武蔵野はまず雑司谷《ぞうしがや》から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円《まる》く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子《まるこ》から下目黒《しもめぐろ》に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。
 東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。しかし一種の趣味があって武蔵野に相違ないことは前に申したとおりである――
 
 この記述は「武蔵野」が関東平野の多摩川と荒川に挟まれた地域であることを示している。実際、独歩が「武蔵野」に入らないとする八王子は多摩川の西に位置している。西端が関東山地で、丘陵がある。中央線は、元々、1898年4月に甲武鉄道として開業している。当初は新宿駅=立川駅間で、八王子に延長されたのは同年11月のことである。また、亀戸も台地の東端から外れている。旧中川・横十間川・堅川・北十間川に囲まれた亀戸は近世において江戸の東外れに位置し、民家があるのはここまでで、その先には田畑が広がっていたとされる。なお、「亀井戸」は現在では「亀戸」と表記される。
 
 立体地図に触れてみる。東東京は海に向かっていてなだらかだが、西東京方面に思っていた上に膨らみがある。形状は、人間の身体で譬えるなら、あばらと言うより、足の甲だろう。爪先に向かって東京湾、足首に向かって関東山地といった具合である。確かに、武蔵野は台地だ。
 
 独歩は「東京」という名称を好んでいない。それは人為的な行政区分を意味しているからだ。「東京」に対し、「「武蔵野」は多摩川と荒川に挟まれた地域であり、自然による区分されている。自然によって分けられ、人々の暮らしもそれと関係し、影響を受けている。自然との共生によって形成された一つの文化圏と独歩はおそらく考えている。
 
 現在東京をめぐる地域区分の名称として「首都圏」や「東京圏」、「区部」、「島嶼部」、「三多摩」などが用いられている。海という自然環境によって分けられた「島嶼部」を別にすれば、いずれも行政区分に立脚している。また、鉄道路線による弁別も、先の原教授の研究が示している通り、一般的に定着している。こうした思考に慣れた今日、「武蔵野文化圏」と言われても、それをイメージすることは難しい。なるほど武蔵野台地という地理的条件を共有しているが、文化的共通性を見出すことは容易ではない。
 

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