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戦争法案と『クレージーだよ奇想天外』(2015)

戦争法案と『クレージーだよ奇想天外』
Saven Satow
Jul. 31, 2015

「東西南北すべて、平和という言葉を口にしながら、戦争をしているではないか!」
植木等『クレージーだよ奇想天外』

 過去の映画には、後から見て、未来を予言していたと思える作品があります。その代表例は黒澤明監督の『夢』でしょう。この中の「赤富士」というエピソードは原発事故を扱っており、そこで話されるセリフはフクシマの際にも交わされたものです。公開当時必ずしも評価の高くない作品でしたが、今日ではその先見性に首《こうべ》を垂れるほかありません。

 いわゆるクレージー映画にも予言的作品があります。しかも、それはまさに今の戦争法案をめぐるものです。

 クレージー映画の中で谷啓が単独主演した作品が一本だけあります。それが『クレージーだよ奇想天外』です。「作戦シリーズ」第6作として1966年に制作されています。坪島孝監督・田波靖男脚本のこの作品はスラップスティックやペーソス、SF、社会諷刺とさまざまな手法が用いられた喜劇です。他のクレージー映画と違う独特の顔をした作品として知られています。

 しかし、『クレージーだよ奇想天外』をそれだけで語ることはもはやできません。2015年の戦争法案をめぐる状況を予言したかのような諷刺が描かれているのです。もちろん、坪島孝監督のクレージー映画には全般的に反戦のメッセージがこめられています。ただ、この半世紀近く前の作品は最近撮られたのではないかと思ってしまう内容です。

 入り組んだ作品で、ストーリーを書き出すと長くなってしまいます。詳細は見てのお楽しみということにして、今回は戦争法案に関することを中心にあらすじを記しましょう。

 地球より文明の発達した遊星αでは、戦争を続け、ロケットで宇宙にも進出し始めた地球人をどうすべきか苦慮しています。とうとう遊星αの長官は地球への介入を決断します。落ちこぼれのM7(ミステイク・セブン)に、平和憲法で戦争を放棄した日本へ赴き、平和活動を行うことを指令します。休暇中だったM7はいやいやながら仕方なく日本に向かいます。彼は地球人の鈴木太郎と入れ替わって任務を遂行することにします。彼の仕事ぶりを報告させるために零八も彼に内緒で派遣されます。

 鈴木太郎として暮らし始めたM7でしたが、平和憲法を持っている日本で、軍需で大儲けしようとする企業などそれをないがしろにせんとする動きに気がつきます。彼は平和のための活動を彼なりにするのですけれど、失敗続きでうまくいきません。

 偶然が重なり、M7は、そうした死の商人の思惑から国会議員になります。彼らはM7に平和法案への賛成を要請します。法案の膨大な量の書類をろくに読みもせず、M7が委員会で賛成を表明しようとした時、総理大臣を名乗る男が乱入します。男は条文を読み上げ、原水爆実験を認めるなど平和憲法を骨抜きにして軍事大国化を目指すものだと明らかにし、平和法案どころか戦争法案だと糾弾します。

 精神病院から抜け出してきたその男によって目の覚めたM7は戦争法案を廃案にしようと奮闘努力します。けれども、死の商人はマスコミにM7に関するでっち上げのスキャンダルを流したり、殺し屋を差し向けたりします。M7は失意のうちに遊星αに逃げ帰ります。

 戦争法案を食い止められなかったM7は処分を覚悟します。ところが、零八が長官にM7が去った後で戦争法案は廃案になったと説明します。平和法案の内容を知った国民は怒り、連日抗議のデモを繰り出し、永田町を反対の声で包囲します。国会もこの世論に抗しきれず、法案を廃案にしたというのです。任務は結果として成功しています。

 その後、M7は地球に戻ります。鈴木太郎になっていた時に恋した女性となついてくれたその息子に会いたかったからです。けれども、彼女は地球人鈴木太郎と結婚しています。M7は綿菓子売りになり、仲睦まじい親子三人の姿を哀感を漂わせながら見守るのです。

 『クレージーだよ奇想天外』はこうした内容です。公開当時は、前年に北爆が開始、ベトナム戦争が激化していく時期です。沖縄の米軍基地が戦争遂行に重要な役割を果たしていきます。国会は自民党が安定多数を維持、佐藤栄作内閣は盤石で、政府への異議申し立てはその外で繰り広げられます。街頭で展開される学生を中心とした抗議デモがその一例です。こうした時代状況下、平和憲法を骨抜きにして、日本もアメリカに戦争協力をしたり、それを口実に軍事力を増強したりするのではないかという懸念がこの映画に見られます。

 今は当時と時代の環境が違います。けれども、その頃が諷刺だったとすれば、今日は予言とこの作品は受けとめられることでしょう。宇宙とまではいきませんが、ノーベル平和賞の候補に選ばれる平和憲法を持ちながら、それをないがしろにする戦争法案が衆議院を通過したのに対し、全国化各地で反対の声が上がり、連日デモが繰り広げられています。映画で描かれた光景そのものです。

 サブカルチャーではしばしば強固な意志と驚異的な行動力を持ったヒーローによって陰謀が回避されます。英雄は人々の代行者としてふるまいます。けれども、この映画ではそう描かれていません。戦争法を阻止するのは市民です。危機感を覚えた無数の人々が街頭に繰り出して国会を包囲し、抗議の声を上げています。「政治家に有権者は白紙委任状を与えたわけではない。自分たちの声が反映されないまま、政治が意思決定することは許さない」。英雄崇拝はパターナリズム、すなわちおまかせ主義でしかありません。

 『クレージーだよ奇想天外』には市井の人々への信頼があります。英雄崇拝はその不信感の裏返しでしかありません。

 法案の廃案どころか、近代日本史を省みると、民衆運動が時の内閣を吹っ飛ばした事例がいくつかあります。最も有名な例は大正政変をもたらした第一次護憲運動です。陸軍の二個師団増設問題が発端ですが、藩閥政治に対する国民のたまりにたまった不満が爆発したと考える必要があります。

 見逃してならないのは、この運動が旧憲法下で「護憲」として展開されたことです。近代日本政治の基礎となる原理は立憲主義です。伊藤博文や井上毅など政党政治に当初否定的だった政府関係者でさえも立憲主義を政治の基本原理に置くことは公定しています。立憲主義に反する政府は認められないとして国民は抗議しています。この護憲は反立憲主義から憲法を擁護することです。立憲主義の否定は近代日本政治を台無しにすると国民は抗議運動を繰り広げるのです。

 反立憲主義は法の恣意的解釈・運用を行います。そうした暴政は独裁的統治です。しかし、この転倒を英雄が実現するとすれば、それは暴君を裏返しただけです。人々の連帯による抗議運動が暴政を打倒しなければ、立憲主義的ではありません。

 いわゆる戦争法案への抗議デモは近代日本政治の伝統に忠実です。反立憲主義に対して行われるデモを誹謗中傷したり、無駄などと揶揄したりするのは近代日本政治への冒涜です。そうした御都合主義や権威主義は恣意の支配を正当化し、暴政を許すだけです。

 『クレージーだよ奇想天外』は立憲主義をよく理解しています。近代史を省みると、政治権力はしばしばそれをないがしろにしようとし、民衆がデモで抗議しています。戦前でも、戦後でも起きたことです。この映画は歴史を知っているために、予言として今立ち現われているのでしょう。

 主演の谷啓を始め自称内閣総理大臣の植木等、零八の藤田まことなど出演者やスタッフの多くは鬼籍にすでに入っています。彼らは『クレージーだよ奇想天外』が今の日本社会の予言になるなどと予想もしていなかったことでしょう。平和法案とは名ばかりの戦争法案が委員会で採決されるなど実際に起こるとは思いもよらぬ事態だったはずです。彼らはきっとこの映画のようなエンディングを迎えて欲しいと思っているに違いないのです。
〈了〉

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