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肉食から見る日本の食文化(2007)

肉食から見る日本の食文化
Saven Satow
Jun. 05, 2007

「いただきます」。

 2007年5月22日、政府は2006年度の水産白書を閣議決定しています。それによると、家庭の魚の購入量が近く肉類と逆転する情勢にあると予想されています。従来は若年層の魚の消費量は少ないものの、年齢が上がるにつれ、魚を肉よりも好む傾向があるのです。

 日本の食卓では魚離れが進んでいるのですが、欧米や中国などでは健康志向から魚の需要が拡大しています。白書は、そうした事情により、魚の価格が国際的に上がりし、日本の輸入業者が「買い負け」をして、購入を見送らざるを得なくなり、米国のベニザケやマダラ、ノルウェー産サケなどの消費で日本のシェアが減少したと述べています。

 もっとも、白書は魚の消費量は全体として減少しているものの、魚の種類によって購入量に違いが出ているとしています。マグロやカツオは堅調で、イワシは減少しています。かつて高嶺の花だった魚が売れ、庶民と共にあった大衆魚が見向きされなくなりつつあるというわけです。

 とは言うものの、日本で肉の消費量が増えているとしても、真の意味で肉食の文化が育っているかは少々疑問です。欧州や東南アジアの肉屋の店先を覗くと、肉は薄切りではなく、ブロックで売られ、それ以上に、内臓や骨、皮も店頭に並んでいます。また、本土と違い、肉食の歴史の長い沖縄では、豚の肉だけでなく、内臓や耳、足も巧みに調理しています。それらと比べると、日本本土の食卓に上る肉料理は、極めて貧弱なバリエーションしかありません。

 けれども、原田信男国士舘大学教授の『日本の食文化』によると、日本は元々は肉食の食文化を持っています。政治的方針によって肉食から米食へと変更されているのです。

 縄文時代以来、狩猟・漁撈が行われ、肉食が普通です。食用家畜を持たず、最も食されていたのは猪と鹿です。弥生時代に稲作が伝わったものの、肉食を駆逐することはありません。国土の70%が山地であり、しかも、大部分が温帯地域ですから、熱帯・亜熱帯の作物である米を栽培するには、不向きです。米が結構食べられていたのは確かですけれども、弥生時代の遺跡からは犬を食していた形跡が見つかっています。

 ところが、685年、天武天皇はいわゆる食肉禁止令を出します。これをきっかけに、肉食がタブー視されていきます。ただし、これを公にしたとしても、肉食がすぐになくなったというわけではありません。そもそも、牛・馬・犬・猿・鶏の五畜の肉を食することを、4月から9月までの間だけ禁止しているにすぎないのです。最も身近だった鹿や猪は除かれ、しかも肉食の禁止期間も農耕期に限られていたのですから、象徴的な意味を持っていただけです。

 肉食禁止令を表わしたのは税制のためと見られています。大陸の影響を受けて、律令体制を確立していく際に、為政者は租税の制度を基礎付ける必要に迫られます。それがなくては新しい政治・経済のシステムが構築できません。中国には田畑を対象とする均田制という税制があります。日本はそれを参考にして税制を整備しますが、米のみが租として徴収されることとなります。その際、猟師に農作へ転換するための保障を行っています。しかし、水田が少なかったため、722年、朝廷は開墾令を出しています。

 稲作と肉食は、東南アジアが示している通り、決して矛盾しません。と言うよりも、稲作には、魚や大豆と並んで、豚の飼育がつきものなのです。稲は元々高温多湿の機構で栽培されてきましたから、水との関係が深く、魚介類などの漁業が食文化に欠かせません。また、水田の畦に大豆を育てますので、多様な大豆食品も見られます。さらに、排泄物や残飯を処理するために、豚を飼育し、それを食するというのが稲作文化の特徴です。

 しかし、日本はこの豚が欠けています。ただ、猪はよく食べられています。豚は、中国語で「猪」が豚を意味するように、猪を家畜化した動物です。餌として柔らかいものばかり与えられたため、猪と比べて、豚は鼻面が短くなると同時に、顔が横に広がり、歯並びが悪いのです。

 朝廷は税制の都合を正当化する目的もあり、仏教を利用して国家を統治しようとしたため、四足(獣)より二足(鳥)、さらに無足(魚)を食する方がより穢れが少ないとします。穢れに関しては駒かい決まりが生まれ、それを守るために貴族は苦心していたようです。けれども、米を食べていたのは社会の上層だけで、庶民の間では依然として肉食が盛んです。いわゆる主食は雑穀や芋類です。農民は米を納税のためにつくっていたというのが実情です。

 イスラム教の豚肉の禁忌のように、何かを食べないことが集団のアイデンティティとなることも少なくありません。なぜ食べないかよりそれが大切です。日本における先の食の禁忌のルールを仏教から説明することは実際にはできません。モンゴルの仏教徒は、むしろ、魚を食べません。魚は死んでも目を開けているからです。仏教と言っても、禁忌のルールは地域によって違いますから、それを根拠にするのは必ずしも適当でないのです。

 米を食べるということは肉食から離れることを意味します。それは社会の上流の証であり、ステータスです。肉食の忌避はそのような通念に基づいて広まっていきます。経済発展と共に現代日本の食卓に、大衆魚に代わってマグロやカツオが載るようになったことと似ています。

 しかし、食は生命維持に直結しますから、服飾や髪型と違い、為政者による統制が完全に実施することは困難です。食うに困らない貴族はともかく、庶民は一度飢饉が起きれば、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれてしまいます。食糧事情の苦しかった鎌倉時代、放念や親鸞は肉食もやむを得ないとしています。

 社会的に食肉のタブーが支配的になるのは、江戸時代以降のことです。生類憐みの令など原理主義的政策が実施され、食肉など持ってのほかという空気もでき来上がります。そうは言っても、禁酒法時代とまではいかないまでも、完全に食肉が廃れていたわけではありません。

 地域によっては肉食が続いています。彦根藩の井伊家が将軍と御三家に近江牛の味噌漬けを贈ったり、猪肉を売る「もんじ屋」があったり、ウサギを「ウ(鵜)+サギ(鷺)」と称して食べたりなどしています。おまけに、幕末になると、西洋の文化が本格的に流入し始め、食肉をめぐる本音と建前の関係さえ崩れているのです。

 肉食をタブーとしたのが天皇なら、それを解禁したのも天皇です。1873年、明治天皇が牛肉を食べたと報道され、肉食を忌避する必要はないとされます。肉食は、かつての米食同様、新しい時代を表象するものになるのです。

 このように日本における肉食は非常に政治的な意味を持っています。もちろん、現在でも肉食には政治的な思惑があります。ただ、近代以前がもっぱら国内問題であったのに対して、今は国際政治にかかわっています。

 その上、歴史的に象徴的な意味を担わされてきた米は、何と、バイオ燃料の原料の可能性が模索されています。変われば変わるものです。

 食文化は元来変化しにくいとされています。慣れを覆すのは長い時間や大きな強制力が不可欠だと考えられています。だからこそ、日本でも肉食を天皇の名において禁止=解禁させているのです。

 しかし、ここ最近、世界的に食文化が急激に変化しています。インスタント食品やファースト・フード、ジャンク・フードの普及だけでなく、世界各地で異文化の料理が受け入れられています。外来のものが土着の食文化に影響を与えることも少なくありません。食文化は今や最も手軽な異文化接触です。それどころか、食文化の方が抵抗感が少ないのです。

 1000年以上かけてようやく禁止がほぼ浸透した肉食が、わずか150年も経たないうちに、食における大きな位置を占めるようになった事態は、食の革命と言って過言ではありません。肉食の日本に舞い戻ったと考えることもできるかもしれません。この歴史を見る限り、食文化は習慣や風土以上に、実際には、人・物・情報の移動という広義の交通が左右してきたと言わざるを得ません。特に、情報の要因は大きいものです。情報は禁止よりも解禁の普及速度が圧倒的に速いのです。今後の食文化がどう変遷していくのか想像もつきませんが、広い意味の交通がそのあり方を左右し、それを考慮しない食文化論が思い込み以外の何ものでもないことは確かなようです。

 ナショナリズムに文化が利用されるのは、継続性を感じさせられるからです。けれども、実際の文化はそんなに単純ではありません。文化は隙間から顔を覗かせ、いつの間にか、はびこってしまうものです。食文化はその最も身近な例と言っていいでしょう。
〈了〉
参照文献
原田信男、『日本の食文化』、放送大学教育振興会、2004年

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