見出し画像

『武蔵野』オンライン(9)(2020)

9 現代の『武蔵野』
 独歩はツルゲーネフを詠みながら、ロシアの風景を思い描いていたに違いない。今のモスクワやサンクトペテルブルクをGoogle Earthで確認すると、武蔵野市より明らかに緑が多い。前者が緑の中に住宅があるように見えるのに対し、後者は住宅地にそれが遍在している程度である。また、Google Earthはモスクワやサンクトペテルブルクの各地の画像を用意している。その中には見事な紅葉の風景もある。真っ青な空を背景に木々がそびえ立ち、陽光に照らされたその葉が黄金色に輝いている。時を経て革命や戦争、開発もあり、そうした森も19世紀のままの姿ではないだろう。しかし、それは今の武蔵野市よりも『武蔵野』で描かれた風景に近いように思われる。東京や埼玉で「武蔵野」を保全しようとする取り組みが続いているが、独歩が見たかったのはツルゲーネフに描かれたロシアの風景である。独歩は武蔵野にロシアの風景を重ねて見たけれども、今は逆である。ロシアの画像に独歩が見ていた武蔵野の風景に思いをはせる。
 
 ロシアも、近年、猛暑の夏が相次ぎ、森林火災のニュースが度々報道されている。中でも2010年の夏の森林火災の被害は深刻で、ナショナルジオグラフィックは、2010年12月30日に「ロシア山火事、災害の2010年」で次のように振り返っている。
 
 今年8月、モスクワの南東およそ180キロのドルギニノ村近郊で、森林火災を食い止めようとする地元住民。 報道によると、消防士が消火活動に当たった山火事は500件を超え、面積は約1740平方キロに及んだ。
 引き続く干ばつと記録史上最悪の熱波が火の勢いを強める結果となった。モスクワ周辺は山火事による煙に覆われ、気温が摂氏38度前後から下がらない日が数週間続いた。
 
 ただ、ロシアでは、今もモスクワなどの大都市近郊森においても秋にはキノコ狩りが楽しまれている。森はまだまだ暮らしに結び付いている。
 
 東京でモスクワやサンクトペテルブルクほどの緑があるところと言えば、新宿御苑や浜離宮、皇居などであろう。それらは震災や戦争の被害も比較的少なく、皇室と関連があるため、開発から免れている。ただ、鑑賞の対象であって、人々の暮らしとは離れている。
 
 しかし、時代は変わりつつある。里山保全が現代的課題への重要な回答策と見なされている。従来、市場の生産原理を中心として生産性を重視した新古典派、政府の再分配原理を中心として平等性を重視したケインズ派という二つの経済学が日本において規範とされている。けれども、90年代に入り、これだけによる調整がうまくいかない事態に社会は直面、発想の転換に迫れる。それは少子高齢化や産業構造転換、経済のグローバル化、地域経済の衰退、気候変動、生物多様性、感染症の世界的流行など次々に顕在化する。こうした諸問題は、経済学が経済主体として捉えてきた企業や家計、政府で起こっているだけでなく、その周辺の自然環境や農村、コミュニティなどで顕著に見られる。この対応には生産性・再分配以外の諸原理を必要とする。藻谷浩介とNHK広島取材班が提唱した「里山資本主義」はそうした好例である。里山の理容・保全が日本社会の抱える諸問題に対する一つの解答である。雑木林を現代社会の暮らしに取り戻すことが求められている。独歩の「武蔵野」も蘇る時が来るかもしれない。
 
 オンラインには武蔵野をめぐる多数の写真やコメントがある。世田谷の自宅から毎日のように「武蔵野」の各地を散策し、そこで撮った写真にコメントを添えてTwitterに投稿している元新聞記者もいる。9月28日には蘆花公園をぶらついている。それは独歩と蘆花の邂逅だ。現代の国木田独歩はおそらく少なくない。彼らによって今の武蔵野の多様な風景を見ることができる。そこには無数の発見がある。彼らは国木田独歩や『武蔵野』の名前を知っていても、詳しくはわからない人もいることだろう。自覚のないまま、現代の国木田独歩として行動をしている。しかも、それは複数形「国木田独歩達」である。
 
 文体もさまざまで、画像は独歩の武蔵野のイメージとは違うが、それらも「武蔵野」である。多様な「今の武蔵野」がある。そこに今の暮らしがある。コメントも風景に関する乾燥だけでなく、縁のエピソードや時代による変化、時事的問題の現われ、現代的課題との関連などさまざまだ。風景も政治や経済、社会と無縁ではない。「武蔵野」という一つの世界に多様な見方があるのではない。各々に独自の武蔵野の世界がある。多様な世界が武蔵野を構成している。新型コロナウイルス禍のため、外出を控えながらも、そうした画像やコメントを眺め、改めて、『武蔵野』を読み返す。新たな『武蔵野』が今も現代の国木田独歩達によってオンラインに生まれ続けている。
〈了〉
参照文献
植田和弘他、『環境と社会』、放送大学教育振興会、2015年
内堀基光他、『人類学研究』、放送大学教育振興会、2010年
柄谷行人、『定本 日本近代文学の起源』、岩波現代文庫、2008年
小林登、『〈私〉のトポグラフィー 自己-非自己の免疫学』、朝日出版社 、1980年
島尾忠男、『結核の今昔―統計と先人の業績から学び、今後の課題を考える』、克誠堂出版 、2008年
ヘンリー・デヴィッド・ソロー、『ウォールデン』 、坂本雅之訳、ちくま学芸文庫、2000年
スーザン・ソンタグ、『隠喩としての病い・エイズとその隠喩』、富山太佳夫訳、みすず書房、2006年
田城孝雄他、『感染症と生体防御』、放送大学教育振興会、2018年
手塚治虫、『鉄腕アトム』16、朝日ソノラマサンコミックス、1975年
野山嘉正他、『近代の日本文学』、放送大学教育振興会、2005年
原武史、『日本政治思想史』、放送大学教育振興会、2017年
本多浩、『人と作品 国木田独歩』、清水書院、2018年
藻谷浩介他、『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』、角川oneテーマ21、2013年
 
山根ますみ他、「武蔵野のイメージとその変化要因についての考察」、『造園雑誌』 53巻5号、1990年
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/53/5/53_5_215/_pdf/-char/ja
 
「立体地図(地理院地図3D・触地図)日本全国、3Dプリンタで立体模型」、『国土地理院』、2014年3月19日開設
http://cyberjapandata.gsi.go.jp/3d/index.html
「ロシア山火事、災害の2010年」、「ナショナルジオグラフィック」、2010年12月30日更新
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/3566/
「村上春樹、“たばこポイ捨て”批判にコメント 単行本では『別の名前に変えたい』」、『ORICON NWES』、2014年2月7日17時:58分更新
https://www.oricon.co.jp/news/2033835/full/
「日本および東京の気温は明治初期から現在までにどのように変化したのか? その1」、『関東塗料工業組合』、2020年6月23日公開
http://www.kantoko.com/?p=2505
塙和也他、「経済蝕む猛暑リスク 労働力8000万人奪い感染症も増加」、『日本経済新聞』、2020年8月23日1時30分更新
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62957600T20C20A8MM8000/?fbclid=IwAR32pPjDVX1SPLEgcuJ25Vwn6EjG3I51FsuNMhuIYucPG4_0q88R_jGKUEk
「コロナの時代 持続可能な地球へ 立ち止まり変革する時だ」、『毎日新聞』、2020年8月28日
https://mainichi.jp/articles/20200828/ddm/005/070/103000c
「この夏の天候 梅雨の雨量も8月の猛暑も記録的 気象庁」、『NHK』、2020年9月1日 18時36分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200901/k10012595391000.html
「気温31度急低下、24時間で猛暑から降雪へ 米コロラド州」、『AFP』、2020年9月9日 9時52分更新「
https://www.afpbb.com/articles/-/3303614?fbclid=IwAR30VUPqmAFM7BM3QI8BGoBk7ozTVYwj86OdUZJZb_W0-4n_N-_mxwpalxw
「異常気象、新たな日常 米で熱波/北極圏の氷消失/日本で豪雨・猛暑」、『毎日新聞』、2020年9月26日更新
https://mainichi.jp/articles/20200926/ddm/002/040/134000c
青空文庫
http://www.jma.go.jp/jma/index.html
気象庁
http://www.jma.go.jp/jma/index.html
武蔵野観光機構
https://musashino-kanko.com
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?