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夕影草、黄昏。

「その中であの子だけが、ひどく綺麗に見えた。あまりに美しかった。」

そう呟いた彼は、とても苦しそうに目を伏せました。
まるで片時も「あの子」を忘れることなどできないというように、
昼も夜もぼうっとしている姿は、外から見ていればよくわかりました。

彼は「あの子」に恋をしているのでした。

およそ「あの子」に出逢うまでの自分自身など忘れてしまったように、
世界のありとあらゆることは、「あの子」を映して彼へ届きました。
宵闇が明けゆく、空の果てに。
咲き乱れ風に舞う、一片の行方に。
昇りて斜く、陽の影の長さに。
西日が照らす、艶めく草花のひとつひとつに。
彼は「あの子」の姿を探しているようでした。
けれども彼は、それが何か、ちっともわからないようでした。
生まれてはじめて芽生えた気持ちは、彼を困惑させているようでした。

「恋わずらい」など、その辺りに捨て置けば良い。
長く患えば悠久と覚える時の流れのうちに、身を焦がし滅んでしまう。
それは仲間の誰もが知る、古い言い伝えでした。

次から次へと、口々に、周りの仲間は彼へ助言しました。
彼の周りには、外の世界のだれかに恋した者はいませんでした。
同じ世界の中で、故郷も根元も、性質までも似通った隣人と。
ただ隣人だったから、それが当然なのだから、結ばれたのです。

仲間は、彼を大切に思っていました。
彼が普通ではない状態になれば、輪の中へ戻すように助けました。
彼も、仲間を大切に思っていました。
仲間が困っていたら、何が仲間の幸せなのかを一緒に考えました。

仲間にとっての幸せは、いつも仲間同士の輪の中にありました。
彼にとっての幸せは、輪の中にも外にもあるようでした。
しかし彼の特別は、これまで仲間の輪の中には、ありませんでした。

実のところ私は、彼を囲む仲間のひとりです。
彼にとって私は、大勢の仲間のうち、ただの隣人のひとりでしょう。
彼は、とても心根の良い、素敵なひとです。
輪の中にいてくれたら、私はそれだけで、嬉しかったのです。
いつか、ただの隣人として、結ばれる未来があればと望んでもいました。

けれども彼の世界は、今はもう、外へ向いています。
「あの子」が、彼の内側にすっかり馴染んでしまったように。
彼の世界は、心と肉体の境が曖昧になっているようです。


それからしばらく後、彼は、私達の世界から消えてなくなりました。
夕影草に「あの子」の姿を探すうち、黄昏には居れなくなったのです。

彼が「あの子」を見つけられたのか、私には知る術もありません。
私は今も、黄昏時の世界で、仲間の輪の中で、生きているからです。

ただ、彼が。
彼の新しい世界になった、「あの子」と。
今はふたり、ひとつの世界の中で。
ただの隣人として、当然のように結ばれていたならば。
ひどく美しい縁が結ばれていたならばと願うのです。

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