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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<138>

舞姫

ベルリン行の便は私と同じく観光客らしき人々、出張帰りのビジネスマン風の男たち、家族連れでいっぱいだ。隣はロビーでラスタカラーの服を着てひときわ目立っていた黒人男性。こんばんは、とどちらともなく挨拶をすると
「君は旅行者かい?」と訊かれた。
「ええ。あなたは?」
「僕はね、ベルリンの家に帰るところなんだ。家族に会いにマリに行ってきてね。マリとドイツは時差が一時間しかないってのに、丸一日以上掛かってしまったよ」と少し疲れた様子だった。マリからエチオピアのアジスアベバを経由してフランクフルト、ベルリン。そりゃ確かに長旅だ。
「君は日本から来たのかい?」
そうだ、と答えると
「僕は昔、クラリネットを演奏するために東京と京都に行ったことがあるんだ。友達が日本では稼げるって言ってたから。けど、さっぱりだったね」と苦笑いをしている。
ドイツ語を話す黒人に初めて出会った。別に珍しいことでもないのに妙に新鮮に映った。また真面目にドイツ語を勉強したいなぁ。何度も挫折しては挑戦するの繰り返し。私はなにかを成し遂げたと胸を張って言えることなんて一つもない。情けない。中学生の頃から大学を辞めるまでは必死に英語を勉強していたけれど、ここ数年はテキストの類すら開いていない。母が奨学金を使い込んで退学を余儀なくされてからずっと、私は一体自分がなにをやりたいのか見失ってしまっている。いや、それより前からもやることなすことすべて中途半端だった。詩をノートに何篇も書いたけれど気に食わなくてやめてしまったし、なにかに夢中になったことすら記憶にない。もう家を、家族を捨てた今、旅行だけが生きがいだ。旅をするために働こう。もう私はあと2月で25歳になるけれど、人生に意味はなくても愉しんで生きていきたい。

「そら、もうすぐベルリンだよ」と隣の男がなにかの酒とジュースを割ったものを飲みながら言った。窓の外は暗く、よく見えなかったけれどこの空の下は夢にまで見た街があるのだ。
それから少しして無事にベルリン、テーゲル空港に着陸。頭上のトランクにしまったボストンバッグと黒いコートを取るのを男は手伝ってくれ、
「いい旅を」と言い合って別れた。ああ、この人には帰る家があるのだ……。

時計は9時半を指しており、空港の温度計を信じるならば気温は9度。9度?横浜の1月の夜より寒くない。けれど私は真新しい黒いコートを着てベルリンやウィーンの街を颯爽と歩きたい。ヨーロッパが似合う女になって、街に溶け込みたい……。

空港からバスに乗って、ホテルへ向かう。暗がりの街を車窓から眺めるとなんだが私が想像していたベルリンと違うーー寂れた郊外のような人通り疎らな道路をバスは走る。これはきっと夜の暗さのせいだ。そうに違いない。

ホテルは小さなバスターミナルのような広場の前にあった。荷物を降ろして腕時計を見るともう11時近い。今日は外に出るのを諦めようか。チェックインを済ませ、案内された部屋は一人で泊まるには広く、ダブルベッドのある洒落た部屋。あのロンドンの、3つもシングルベッドがあった部屋の何倍も上等だ。カーテンを開けると広場の向こうに狭い運河のようなものが見えて、小舟が浮かんでいる。
ヨーロッパの冬の夜の寒さを感じたくて窓を開けた。ああ、しんと冴えた冷たい空気……!身を乗り出して何分も飽くことなく外気にあたっていると、もうこれだけでベルリンに来た甲斐があるとさえ思えた。あのマリ帰りの男は無事に家路に着いただろうか。この街のどこかに彼はいる。まだ明かりの付いているあの家、この家のどこかに。もう二度と会うことのないだろう人たちに私はこれからどれだけ出会うのだろう。私の人生においてまったく重要じゃないはずなのに、二度と会うことのない、名前すら知らない人たちのことを思うと何故だか切なくてたまらない。

なんだか少しお腹が空いてきた。フロント係に近くにこの時間開いている商店はないか聞いてみよう。窓を閉め、コートを着込んで廊下に出るとお菓子とジュースの自動販売機があった。あ、これで済ませよう。喉も少し痛いしさすがに疲れているから。ワッフルクッキーとハーブキャンディとパックのリンゴジュースを買って部屋に戻った。寝る前にシャワーを浴びたかったがそんな気力はなかった。ちょっと汚いかもしれないけど明日の朝早起きすればいいや。

糊の効いた白いシーツの布団に潜り込んで目を閉じる。どうしてだろう。こんなに疲れているのに眠れないし、ゴホゴホと咳が止まらない。起きて風邪薬を飲んだけれどどんどんひどくなってきて悪寒もする。熱もあるな、これは。窓を開けて外を眺めていたせいかな……いや、フランクフルト行の機内で咳をしていた子供の風邪がうつったのかも知れない。ああ、冗談じゃない。ベルリンまで来て熱を出すなんて!うーん、うーん。熱のせいか頭も身体も重たい。目の周りにはチカチカと星が沢山見えるし、ザッザっと軍靴で行進しているような音まで聞こえてくる。ああ、やっぱり私は熱があるんだなぁ。なんだっけ、この音は……ああ、ピストルズの『さらばベルリンの陽』か……。私は喉の痛みなどお構いなしにやけくそで歌った。Now I got a reason to be waiting The Berlin Wall………石炭をば早や積み果てつ……