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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<137>

冬のヨーロッパ

8泊9日の駆け足の東欧旅行。デパートの両替所で導入されたばかりのユーロ紙幣を手にし、ロサンゼルス旅行から使っている安物のスーツケースに荷物を詰めた。黒い新しいコートはまだ試着以外で袖を通していない。ロンドンを知っているブーツは数日後にベルリンやウィーンの街も歩く。

吐く息が白い暗い朝、出来るだけ音を立てないようにアパートの階段を下りる。ああ、またロクに眠れなかったーーああ、車窓から見る本牧埠頭……!仄暗い海と空、立ち並ぶ倉庫がボウっと淡いオレンジと緑色に輝いている。これほどまでに美しい風景を私は未だ知らない。これから私は世界中を旅するんだーーこれ以上の景色に出会うために。

数か月ぶりの成田空港。10数時間後にはベルリンだ。
「フランクフルト経由、ベルリン行ですね。それではお手荷物を……」
水色のスーツケースが奥に消えてゆく。ベルリンで会おう。

搭乗までまだ時間があったけれど早々と出国審査を済ませて免税店を眺めた。煙草は数か月前にやめたし、欲しいものなど特にはない。あ…..ロンドンへの機内でディオールの口紅を買ったっけ。買ってすぐに塗ってはみたけれど唇だけが悪目立ちしてまるでピエロのようだった。あの口紅は今、化粧台の引き出しに眠っている。赤い口紅が似合う女に私はなりたかったのに。

搭乗時刻が近づき、ゲートに向かった。ああ、早くベルリンが見たい。私はそわそわして落ち着かなかった。ガイドブックでも読むか。時計とガイドブックと搭乗案内を代わる代わる見る。あれ、もうすぐ搭乗開始時刻なのになんのアナウンスもない。おかしいなぁ。窓の向こうでは何機もジャンボジェットが飛び立っている。どこへ向かうのだろう……ボーっと眺めていると
「日本航空××便をご利用のお客様……機体の点検整備のため、予定時刻より約1時間半の遅れでご案内となります。本日はお急ぎのところ誠に申し訳ございません……アテンション・プリーズ……」とアナウンスが入る。ため息をつく人たち、騒めいている人たち。ベルリンへの乗り継ぎに間に合うだろうか?気になって仕方がないが、こればかりはどうしようもない。不慮の事態や不便をも楽しむのが旅の醍醐味だと誰かが言っていたっけ。けれど願わくば予定通りにベルリンに着けますよう。私がまだ喫煙者ならよかった。時間つぶしが出来るのに。搭乗を待つ間、パイと飲み物が配られた。

アナウンス通り、1時間後に私は機上の人となった。運よく大型スクリーンの前の席。しかも両隣は空席。遠慮せずにトイレやギャレーに移動が出来るのがいいし、なにより足を少し伸ばせるのは楽だ。いつかビジネスクラスに乗ってみたいけれど、航空券にお金を掛けるよりエコノミークラスでいいから沢山旅行をしよう。

ガイドブックは読み飽きた。映画も面白そうなものはやっていない。疲れているから眠りたいのに目を閉じても眠気がやってこない。いつものパターンだ。しかし飛行機の中というのは乾燥している。なんでもサハラ砂漠と同じくらいの湿度らしいのだが、本当だろうか。肌はガサガサ、喉が少し痛い。顔にクリームを塗ってマスクを着けた。近くの席の小さな子供がしきりに咳をしている。

どこでもドアのように扉を開けばホテルの部屋ならいいのに。けれど長時間の移動があってこそ旅じゃないかとも思う。飛行機に乗るのはこれで何回目だ……?初めて乗ったのは高校の修学旅行。それからすぐにアメリカ研修、リサと行ったロサンゼルスにこの間のロンドン……まだ10回も乗っていない。いつどこに行ったか覚えていられないほど旅行がしたい。次はどこへ行こう?その次は?

知らずのうちに少し眠れたようで、あと数時間でフランクフルトらしい。軽食が運ばれてきた。子供はまだ咳をしている。ベルリンに着いたらまずなにをしよう。夜遅くだから散歩をするのも危険かもしれないが、近くに商店があれば買い出しくらいはしようか。駆け足の旅だから少しでも街に出て、その空気、温度、音、目に映るもの、すべてを全身で感じたい。今自分はここにいるんだと実感したい。

「当機、日本航空××便はフランクフルト・アム・マイン空港へ着陸態勢に入りました。現在のフランクフルトの時刻は午後8時過ぎ、気温は5度、天候は晴れとの情報が入っております。この時季のヨーロッパは格別です……また機内で皆様にお会いできる日をスタッフ一同心よりお待ち申し上げます」

この時季のヨーロッパは格別です、という言葉が非常に印象に残った。寒さが大の苦手な私がよりによって一番寒い時にヨーロッパに向かったのは単純に一年で一番安いからだったからだが、格別に素晴らしいという冬のヨーロッパを経験出来るのは悪くないと思った。

フランクフルトの空港はやたら広くて、乗り換えのターミナルへはモノレールで移動した。車窓からユーロのマークの大きなオブジェが見えた。ルフトハンザのカウンターを探すのに少し迷ってしまったが無事にチェックインを済ませ、ベルリン行の便を待つ。ああ、子供の頃から夢にまで見たベルリン!ベルリンの壁が崩壊したときには、いつか絶対にベルリンに行ってやると誓ったーー中学の担任だった大橋先生は元気かな。
「今日は教科書なんかよりも大事なものを見た方がいい」と先生は教室のテレビをつけ、ベルリンの壁崩壊の生中継のニュースをみんなで見た。つるはしで壁を壊す人々、もう今生では二度と会えないと思っていた家族や友人が抱擁する姿……

先生。私はとうとうドイツに来ました。あと1時間と少しでいよいよベルリンに着きます…………。