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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<143>

東欧を旅しているうちに、必然的に(多分)東方正教に興味を持つようになった。私は宗教を持たない不可知論者だけれども、その神秘的な儀式や美しい教会建築や美術、文化などにすっかり魅せられてしまったのだ。

へぇ……エチオピアでは正教会が国教だった時代もあるのか…….。ああ、そういえば「失われたアーク」ってのは旧約聖書に登場するソロモン王とシバの女王の物語だったっけ。よし。次の旅はエチオピアで決まりだ。

しかし、治安面やその他の事情を考えると今の私にはさすがに一人でエチオピアへ行くのは少々、いや、かなり難しい。

「エチオピア ツアー」と検索するといくつかの旅行社が引っ掛かった。どこも似たり寄ったりの内容と日数、金額だが、添乗員が毎日世界の現場から情報を発信しているE社に問い合わせる。
「お問い合わせ誠にありがとうございます。南様がご希望の日程の当ツアーは最低催行人数が15名様となっておりますが、未だ確定しておりません。その旨ご了承いただいたうえで、予約、代金をお支払いいただきたく存じます。なお、催行が叶わなかった場合は速やかにご連絡申し上げ、ご指定のお口座に返金いたしますのでご安心くださいませ」
すぐに丁寧な返信が来た。この旅行社なら間違いはないだろう。催行決定を祈るしかないーーけれどもしダメだった場合は?もう店には休みを取ると伝えてしまった。どこにも行かずに家でただボーっとしているなんて絶対に御免だ。国内旅行も今は興味がとんとないしなぁ。在宅中は煙草を吸いながらエチオピアの情報を得るためにパソコンと常ににらめっこ。

「また旅行行くの?いいなぁ、私もどこか行きたいよ。モルジブとかグアムとかさ」
源氏名アオイ、秀美がいつもの店でサンドウィッチを食べながら話しかけてくる。
「ひーちゃんはヨーロッパには興味ないの?」
「ないわけじゃないけど、綺麗なところで一日中何もしないでボーっとしたい」
ヨーロッパは彼女にとって綺麗なところじゃないのかと思ったけれど黙ってコーヒーをすすった。
ユリはどうしているだろう。彼女が店を辞めてからもうどれくらい経ったっけ。連絡もあれから一度もない。
「ねぇ、ユリから何か連絡あった?」
「ないよ。どうせ別の店で働いてるんでしょ。まぁ、あんな子はすぐにクビになると思うけどね。2chでも散々書かれてたじゃん、ヤバい女が出てきたって」
「けど、私もいつクビになるか分からないわ。今月、指名数今までで最低だし、旅行ばっかして店長とかに嫌われてるし」
「ミホちゃんはクビにならんでしょ。あ~、ユリのこと思い出すとむかつくわ」
ユリの名前を出してしまったことに後悔と少しの罪悪感を覚えた。
「ホント、むかつく。クスリなんてやったってなんの解決にもならないのに逃げてばっか。逃げられる人はいいよねぇ」

私はクスリをやっているという理由でユリが苦手なのではなかった。強引さとすぐに「もういいよ」と一方的に言い殴って会話を終わらせては同情を買おうとしているところが私の母を彷彿とさせたからだ。
「クスリは別にいいんだよ。私はさ。けど、なんていうか…….」
「良くないでしょ」
「良くはないけどさぁ」
「でしょ?何度何度も言って申し訳ないですけど?あの子が私のこと『ヒデ』って呼ぶの本当に嫌だったわ。ヒデって呼ぶのは私が唯一尊敬してた人間の私のお父さんだけだったから。お父さんはチュニジアとかで仕事しててカッコよかったんだよ。あ、この間実家帰ったときにお母さんにミホちゃんのこと話したらさぁ……」
「なんて話したの?」
「職場の一つ下の子で、しょっちゅう海外旅行してる子がいるんだよ、この間もロシアとか行ったんだよって。そしたら『いいじゃない。あんた、そういう子と仲良くしなさい』って。家に遊びにいらっしゃいとも言ってたよ。お母さん、気が合いそうだって」
「そうかぁ……照れるなぁ」
「ミホちゃんはもっと自信持ちなって」
「そだね……」

帰宅してパソコンを立ち上げると旅行社からメールが届いていた。
「【重要】お申込み頂いたツアーの件」
あ、こりゃダメだったな……
メールを開くとエチオピアのツアーは人数が集まらず中止になったということに加え
「以下、ご紹介いたしますのは当該ツアーと出発日と帰国日が近く、代金もほぼ同額で且つ、南様がご興味あるとチェックを入れて下さった国を廻るもので、催行が決定しているツアーです。ご検討いただけましたら幸いです」と書かれていた。
商売上手だなぁ。けれどダメだったら他に行こうと考えていた私にはありがたいともいえる。

クロアチア・スロヴェニアの世界遺産とアドリア海を巡る14日間。ポーランド周遊10日間。ウクライナとベラルーシ、鉄道とバス旅12日間……どれも楽しそうだ。スクロールを続ける。
「哀愁のポルトガルとマデイラ島花のカーニバル15日間」
……これだ!
思っていたより随分早くポルトガルへ行くことになった。ポルトガルへはツアーではなく一人で行かれるだろう。けれどたまにはツアーも面白いじゃないか。ネットの評判によるとE社のメインターゲットはリタイアした旅好きの富裕層で、添乗員の質がすこぶるいいという。私なんかが参加していいのか少し迷ったけれど、自信を持とう。そう、ひーちゃんがさっき言ってたようにね。どんな人たちと出会えるだろうか。ポルトガルはどんな国だろうか。楽しみで仕方ない。伊勢佐木長者町駅に貼ってあったポスターに感謝。あの美しく儚げな国に私はもうすぐ旅立つ。

スーツケースを大きさ違いで2つ買った。一つは機内持ち込み用。赤いリモワを石畳の道を転がしながら歩く自分を想像するとたまらなかったーーヨーロッパの街が似合う女に私はなりたい。