見出し画像

雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<135>

visitor

今夜はお世話になった春山さんの送別会だ。ここらでは有名な鶏料理のお店が会場だが、早めにアパートを出てまずはスーパーに向かった。あんな辞め方をしてしまって少し気まずかったが、挨拶がてらにロンドン土産を持って行くことにしたのだ。

かつては社員証を見せて通った受付で事情を話し「Visitor」と書いてあるバッチをもらって付けた。2階に向かう。すれ違う懐かしい顔と、知らない顔。レジ室に入ると誰もいない。いつかそうしたように机の上にお菓子を置いた。
「ロンドンに行ってきました。皆さんで召し上がって下さい」
衛兵の写真にでかでかとLondonと書かれた箱のノーブランドのチョコレート。もう少しマシなものを買えばよかっただろうか。

「あ!ミホちゃん!お久しぶり~。元気だった?」
私と同じ歳のパートの、シングルマザーのリエちゃん。特別仲が良かったわけではないが元気そうでなりよりだ。あの小さかったお嬢ちゃん、大きくなっただろうなぁ。
「うん、なんとかやってるよ~。ロンドンから帰って来たばっかりなんだ」
「ミホちゃんは英語の勉強ずっとしてたもんね。え、一人旅?カッコいい~!」
とてもカッコいいとはいえない旅だったのだけれど、そういうことにしておこう。
「春山さんの送別会、リエちゃんも行くよね?」
「もちろん!春山さんには本当にお世話になったからね。本当にいい人だわ、いなくなるの寂しいな」
「うん。寂しいよねぇ……」

店を後にしたがまだ時間がある。デパートをうろうろしているとトミーというあだ名のパートさんを見かけた。買い物中なのだろうか。トミーも送別会に参加するだろう。けれど声を掛けるのをなんとなく躊躇ってしまった。

会場に着くとすでに沢山の人が来ていた。みんな私を歓迎してくれて涙が出そうになった。私の送別会じゃないのに何故だろう、この気持ちは。ああ、私も真っ当な辞め方をしていればこんな風に会を開いてもらえたのかも知れない。春山さんにロンドン土産の紅茶とビスケットを手渡すと
「あら~、こんな気を遣わないでくれてよかったのに。でも嬉しいわ、ありがとうね」と優しく微笑んでくれた。泣きそうだ。開店前に重いドライアイスを一緒に運んで、赤缶で一服した。休憩時間には色んな話をした。嫌な客や上司に怒られた時には味方になってくれた…….。本当にいい人だ。もう会うことはないと思うと悲しくてたまらない。

50人くらいが集まった広い部屋。見渡すとトミーはいない。他に春山さんと親しかった数人の姿も見えない。なにがあったのか、なかったのかは分からないけれど、どうして?と思った。けれどまぁ、そういうものなのだろう。みんなそれぞれ事情があるのだ。私などにはあずかり知らぬ事情が。

美味しい鶏料理とお酒を頂きながら、懐かしい面々とお喋りをした。今はどうしてるの、と訊かれてまさか夜の商売をしているとは言えず、なんとかやっていますよと答えた。私には秘密が沢山ある。真っ当な人生を歩めない自分が恥ずかしい。けれど私は決めた。来年早々には東欧に旅行するし、世界のあちこちを見て廻るんだ。ロンドンから帰ってきてまだ一週間か。あの商店の親父は今日も愛想なくレジを打っているだろうし、ロゼッタストーンや「ひまわり」の周りには沢山の人が集まっているのだろうーー待ってろよ、ロンドン……いつかまた必ず行くから……。

そんなことを考えているうちに送別会も終わりに近づき、春山さんが司会者に呼ばれマイクを握った。
「今日はみなさん、お集まりいただきありがとうございました。こちらでお世話になって早30年、色々ありました。ご存じの方もいると思いますが30代で離婚も経験しました。定年まであと2年、まだまだ頑張りたいと思っていたんですが……年老いた母の介護をするために退職することに致しました……皆様、本当にお世話になりました……今日は本当に……ありがとうございました」
春山さんは涙ぐんでいた。周りのみんなもすすり泣いていた。
春山さんからいつか聞いたことがある。元夫は酒乱の暴力男で、必死に日々を耐えていたけれど息子さん2人が義務教育を終えた後に離婚を決意したこと、それからしばらくして現在のご主人と知り合い幸せに暮らしていること、今は2人のお孫さんに恵まれていることを……。何故こんな私にそんな話をしてくれたのだろうと思っていた。私の家が複雑だということを打ち明けたからだろうか。私は子供の頃からかなり年上の人からこうした話を聞かされることが多かった。私を信用してくれていたからなのか、それとも……?

食品レジ係の7、8人で二次会をすることになった。適当にどこか入ろうかと見つけたのは雑居ビルにあるダーツバー。かつて夜遊びをしていた私にはこの手の店などはお馴染みだったが、他の人たちはこんな機会じゃないときっと入ることはないであろう。ブラックライトに照らされたずらりと並んだ海外のお酒。けれどお喋りが出来ればそれでよかったに違いない。ほうれん草とベーコンのバター炒めにナッツ、それにカクテル。ああ、懐かしいな、いつも食堂でしていたような会話。春山さんは相変わらずマイセンライトを吸っているし、大場さんはセブンスターの煙を鼻から出している。そうだった、食品レジ係は老若男女問わず喫煙率が異常に高かったっけ。みんな変わらない。変わったのかも知れないけれど、今はただこの懐かしさに浸っていたい。

バスで帰る人、徒歩で帰る人。けれど春山さんを見送るために駅までみんなで歩いた。
「今日は本当にありがとう。今日、みんな来てくれたけど、南さんが来てくれたのが一番嬉しかったわ。本当にありがとうね。身体には気を付けてね。あなたはまだ若いんだから……頑張ってね」
なんて嬉しい言葉だろうか。私の母親より少し年上だけれどあなたを母のように思っていました。まだまだ頑張らないとなぁ……もう会うことは多分ないだろうが、いつかこの言葉をきっと思い出すだろう。いや、忘れないだろう。