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映画「怪物」を観て1ヶ月考えた。世界を誰の目で見るのか。

大きな声を出しにくくなる映画だな。
エンドロールが流れたあと、そう思った。
物理的に喉がからからだったのもある。でもそれ以上に、自分が大きな声を出すこと、自分の言葉を語ることに恐れを抱くような映画だった。

そういう気持ちになったのは、私だけじゃなかったと思う。
映画が始まる前は、ばりっばりと響く音でポップコーンを食べながら会社の同僚の噂話をしていた隣の2人組は、映画が始まったら、まるで手も口も動かさなくなった。映画が終わって会場が明るくなったとき、私はこそっと隣を盗み見したのだけれど、トレイの上のポップコーンは半分以上残っていた。片方の女性が、開演前の10分の1くらいのボリュームの声で「え、どういうこと?」と小さくつぶやいた。
うん、わかる。大きな声を出すのが、憚られるような話だったよね。



さかのぼること1ヶ月前の5月7日に、私は、六本木で映画「怪物」のプレミアム試写会を観た。幸運にも、私たちは、日本で初めてこの映画を観る観客だというアナウンスがあった。

開演前には監督の是枝裕和さんと、脚本家の坂元裕二さん、そして出演者のみなさんのトークイベントがあった。
ハイテンションのアナウンサーの司会に対して、インタビューに答えるメンバーの声は、みな、小さかった。誰ひとり、声をはることがなかった。笑いをとることもなかった。司会が投げかける質問に対して、「それって、どういう意図の質問でしょう」と、監督や出演者が問い直すシーンも何度かあった。
そこにいる誰もが、自分の発する言葉に誠実であろうとしているような様子がみてとれた。あのトークイベントがすでに、映画の内容を象徴していたのだということには、あとで気づく。

さらにさかのぼること、25年前のことだ。
当時大学生だった私は、テレビ制作会社の面接で、当時30代半ばだった是枝さんと出会った。その年の採用面接委員長が、是枝さんだったからだ。
そこで是枝さんは、受講者の私たちに、ドキュメンタリー制作について語った。

当時の私にとって、天変地異だったのは、是枝さんが
「事実だけをつなげて編集しても、嘘は作れる」
と言ったことと
「ドキュメンタリーの映像に映っているのは、被写体のようであって、実はその被写体を追いかけている自分(ディレクター)の思考のほうである」
と言ったことだった。

つまり、「客観的事実」というものは存在せず、ドキュメンタリーが紡ぐのは「私にとっての真実」のようなものだ、ということだった。

マジか……。
そのとき感じた衝撃は、25年たった今でも思い出せる。そうか。私たちが事実だと信じていることは、すべて、「私が事実だと感じたこと」「事実だと思いたかったこと」なのだな、と。
世界が反転したような気持ちになった。いや、反転したというよりかは、世界がはじめて自分とつながったような気持ちだった。

これから、私が生きる世界は「私が見たいと思う世界なのだ」と自覚したことは、その後の自分の人生のあらゆる選択の指針となった。
私の親しい友人たちはみんな知っているけれど、私の人生はBKとAKに分けられる。つまり、「Before KOREEDA」と「After KOREEDA」である。

そしてこの「怪物」を見て、もう一度思い出す。思い直す。
私たちは、私が見たい世界を見る。
そして、私には見えない世界を知るために、私たちは本を読み、映画を観て、私ではない誰かに恋をする。
「怪物」は、まさに、私には見えない世界を見るための映画だ。


映画を観たあと、私が見せられたものは、何だったのだろうとずっと考えてきた。トークイベントで是枝さんは、「この映画には何か特別なものが映っている」と語っていた。本当にそのとおりだった。
これまでに観た映画とは、なにもかもが、桁違いだった。
ふと、この話がもし最初に小説で発表されていたら「映像化不可能」という帯がつくかもしれないなと思った。

毎日のように、映画のシーンを思い起こしている。
あのとき、カメラはどの位置にあっただろう。思い起こしては、ああ、だからか、と納得してまた考える。
そうしているうちに1ヶ月経ってしまっていた。

ママ友と話をして思い出す。
講義をしながら思い出す。
原稿を書きながら思い出す。
旅先で思い出す。
深夜、ふと目が覚めて思い出す。

何度も手のひらの上に映像を呼び起こしては、味わいなおす。
これは映画が終わった瞬間にわかったことだけれど、この映画は初めて見るときと2度目ではまったく違う映画になる。
一度目に見たときにしか味わえない奇跡が、ある。その奇跡をずっと指先で転がしながら、私は、公開したらもう一度見るべきかどうか、迷っていた。今も迷っている。もう少し、この映画を味わってから、二度目を観たいような気がしている。

これから、「怪物」の奇跡に立ち会えるみなさんが羨ましすぎる。
記憶の処女になって、もう一度、「怪物」を初見で観たい。

やっぱり、もう少し、初回に味わった奇跡を舐め尽くしてから、もう一度観に行こうと思う。

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