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生まれて初めて保育園のお迎えに行ってきた。

自分の知らない世界に飛び込んで、自分の在り方が少しでも変わることすべてを旅だと思っている。最近、唐突に子供(6歳と9歳女子)とのかかわりが出来てそれがやたら面白いので報告したい。

簡単ないきさつ

ショウコさん(陶芸と文筆を仕事にしている、ノリノリで人生をやっている素敵な人。一人で2児を育てている)と知り合いづてに知り合い、仲良くなって子供を預かることになった。

僕はこれまでの人生で全然子供と触れ合うこともなく、何なら苦手意識もあった。
 けれど、ここ数年での自分の著しい人間的成長を考えるとそろそろ行けるやろ!と思ったので引き受けさせてもらった。
 いろいろなリスクも考えて、そのあたりも聞いて、緊張しながらその日はやってきた。


お迎え~帰宅

かなり緊張しながら初めての預かりの日が来た。大学が終わって17時半に保育園へお迎えに行く。
 家へと向かう帰り道、手をつないで歩いたら手の小ささにびっくりした。
子供は小さいということが、情報ではなく体感として伝わってきた。
柔らかく水っぽい手を離さないように握って夕暮れの街をてくてくと歩く。
普段意識しないけれど歩道は6歳児にとってすごく危なくて、走ってくる自転車が恐ろしいものに見えた。
手を握っただけでこの生き物が自分よりはるかに脆いことが伝わってきて、ああ自分は大人になっていたんだなと感じた。

「あのさー、さとけんはさー、上の歯と下の歯どっちから抜けた?」
「いまな、下の歯グラグラしててん」
「クラスの○○ちゃんめっちゃかしこいで、2ひく5できんねん。すごいやろ(すごい)」

などと話しながらバスに乗り、しりとりをしながら家に帰る。
自分でもびっくりするぐらい心が温まっていた。

家に帰ると、長女(9歳、小3)がもう帰宅している。
「今日はどうだった?」
「んー、まあまあだよ。」
などと話して、そこに次女が乱入してきたりして、にぎやかになる。

子供たちがお風呂に入っている間に、ショウコさんが作り置いてくれていたご飯を準備する。
一緒に食べると、食べる量も全然違うなと思いながら、「たくさん食べて俺ぐらい大きくなってくれ」と願う。

一緒にスパイファミリーを見たり、ジェンガをしたり、踊ったり、おんぶをしたりして、寝かして、一緒に朝ご飯を食べて保育園に預けに行く。

もう4回ほど預かっているが、どんどん仲良くなってきていて、行くたびにふたりの新しい一面が見えるし、とても楽しい。
2人をおんぶして走って「さとけん、おんぶ上手やな。」と言われたとき、今年一番うれしかったかもしれない。

子供が欲しくなるか

子供との触れ合いは想像以上に多幸感があって、もうめちゃくちゃかわいいし、楽しくて面白い。さすがにかわいすぎる。
明らかに何らかの脳内物質が出ていることを感じざるを得ない。遺伝子というのは恐ろしい。もしなにかあったら身を挺して守るぜ!みたいな気持ちに自然となってしまう。

でも今は子供が欲しいとは思わない。親にとって子供というのはものすごく明快で強力な「生きる意味」になるとおもう。自分が世界に存在する必要がある確固たる理由が生まれる。
行動原理とか、リスクの取り方も大きく変わってくるだろう。
僕はまだ自分の生きる意味を追い求める途中にいて、その過程での焦燥や不安、緊張感を十全に味わっていきたい。まだ早いな、と思った。
ただ、「子育て」という巨大プロジェクトがハードでものすごく面白いものであることは感じたので、いつかやってみたいと思う。

反出生主義について

反出生主義という考え方がある。
すごくざっくりというと、新しく子供を産み育てることは、この世に苦痛を感じる主体を作り出すことであり、(負の功利主義的立場から)、出産は倫理的な悪であるとするものだ。
詳しくはこちらの青山拓央先生の論考を読んでほしい。

この論考で心に残った一節がある。

多くの人々が人生の岐路で向き合わざるをえないのは、倫理的な善も含みうるほかの何かを実現するために、どれだけの罪、どれだけの倫理的な悪を自分が背負うか、という選択である。新たな子供をつくりだすことに倫理的な悪が含まれているとしても、その悪を背負って生きていくか、あるいは避けて生きていくのかはしばしば個々人に委ねられる。そして、その罪を背負って生きていくことは、実践的にはもっぱら、養育の義務を果たすこととして体現されるだろう。
               「生まれることの悪と生み出すことの悪」

「すべての人間は倫理的に正しく振舞う必要がある」という反出生主義の前提を、僕は机上の空論性が強いと感じる。

実際に子供と触れ合って、考えたことがある。
子供は大人が想像するよりもずっと強い。大きなエネルギーと好奇心で未知の世界に毎日ためらわず突っ込んでいっている。夜九時にコテンと寝るのも当たり前で、それだけの挑戦を毎日している。
生きるうえでの苦痛は確かに存在し、時としてそれは耐えがたいこともあるけれど、「禍福はあざなえる縄のごとし」とも言うように、苦痛なくして幸福もない。生れ落ちる彼ら彼女らの歩む道が幸福のみで満たされていないと子供を産むべきではないという考えは、子供のタフネスと柔軟性を甘く見ているのだろうと思った。

ただし、僕が見たのはあくまでショウコさんが努力して作り上げた幸福な家庭の1ケースでしかないから、もっと耐え難い苦痛に満ちた環境で育つことを強要されている子供も現実に存在するだろうし、その人の前で前述のようなことを言えるかというと、言えない。子供のもろさと多感さを実際に感じた後に虐待や小児性犯罪のニュースを見ると、以前とは段違いに胸が痛む。

  • 自転車を漕ぐとき、子供がいたら以前よりずっと減速して、慎重に追い抜くようになった。

  • 町中の保育園の声が、微笑ましいものとして聞こえるようになった。

  • 駐輪場で隣の自転車が子供座席付きママチャリでもうっとおしく思わないようになった。

何かを知ることで、自分というのは不可逆に変化していく。「子供」という新しい世界への旅はとても面白かった。彼女たちがどのように成長していくか、とっても楽しみに思っている自分がいる。びっくりだ。ではまた。


家族を拡張していくショウコさんの挑戦はこちら↓(子供たちの写真もあるよ)

僕を生み育てた母親(文章がうますぎる)の子育て振り返り記録はこちら↓


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