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【小説】 恩贈り #1

 父が死んだ。七十歳を過ぎた母からの電話は淡々としたものだった。

「喪主は私がするけれど、長男が帰ってこなければ恰好がつきません。はやめに帰ってきて」

 有無を言わさない電話の声で、十五年ぶりの帰郷を決めた。

 明日に控えた葬式を面倒に感じながら、見慣れた故郷の海沿いを歩く。漁業も寂れた北海道のこの土地は小学生の頃からさして変わりがない。変わったのは、自分が煙草をくわえているくらいだ。
 十五年前、親父はまだ現役の高校教師だった。息子との会話もなく、高校三年生の担任で忙しいとやらで勤務校に向かっていった。思い返すと俺はいつも親父の学校へ向かうその背中ばかりを見ていた。

 この土地では、煙草の煙は真っ直ぐに上がらない。横殴りの風にすぐにかき消されるその煙と共に親父の記憶も薄らいだ。

 父の葬儀の日、実家は見知らぬ顔で埋め尽くされた。よく知らぬ親族がパラパラと集まるだけだろうと思っていた予想は大きく裏切られた。さまざまな世代、老若男女。いったいこの小さな町のどこにこんな人がいたのか。
 葬儀が「盛況」というのもおかしな表現だが、まさにそこは賑わった場にとなっていた。

 よく見ると何人かのグループで訪れたり、葬儀の場で久しぶりの再会を果たしたりする者が多いようだった。

 まるで別人のようにあたたかく微笑む父の遺影を、老いた母の隣でぼんやりと眺める。高校の卒業式で、担任をしていたクラスの生徒たちと撮った写真だという。

 あの写真はいったい誰なのだろうか。確かに顔の造作は父そのものだが、まるで別人だ。
「あんたは誰だ?」
 家の中で無言で夕飯を食べていたあの父ではないのか。自室にこもり、険しい顔で赤ペンを握りしめていたあの背中は父ではないのか。何か大きなものを見落とした気がして、心がソワソワとする。

 葬儀が終わると見知らぬ女性が話かけてきた。髪の毛にはやや白髪が混じり、いかにも中年になって肉が付いたという体系だった。

「手島先生にはとってもお世話になって、今の私があるのも先生のおかげなんです」

 河合と名乗るその女性は、白いハンカチで目頭を抑えた。

「そうなんですか……。こちらこそ、生前は大変お世話になったようで……」

 語尾が消えいるようになったのは悲しみからではない。あの無口で、周囲に関心を示さない父が、一体彼女へどんな「お世話」をしたというのか。その想像ができなかったのだ。

「先生は私たちのためだけに卒業式を開いてくださったんですよ。ああ、聞いていますよね?」
「え? 卒業式?」
 意表をついた河合の言葉に、少し声がかすれた。

「あら、聞いていない? 先生は本当に優しくて強い方でした……」

 ふたたび女性は涙を流し始めた。

 「あら、やだこの人ったら。息子さんの前で!」

 雰囲気の似た女性たちが泣き崩れた河合の周りに集まり、慰めはじめた。涙の伝染か、中年の女性たちは次から次へとボロボロと大粒の涙をこぼしはじめた。中には、ハンカチを取り出して顔全体を隠すように鼻をすする者さえいる。

 その場に沈黙しているのがいたたまれなくなり、口を開いた。

「あの……、父はいったいどんな教師だったんですか?」

 ふと口をついたそんな言葉に全員が顔を上げた。そして互いの目を見合って、かすかに頷いたように見えた。

「私たち先生のご葬儀で久しぶりに再会して、今週土曜にまた会おうってことになったんです。もしよろしければ、その時にいらっしゃいませんか? 先生の思い出話をしようと話していたので」

 一瞬よぎったのは、仕事のことだ。父が亡くなったことを上司に告げた時、「有給も余っているし、一週間くらいたっぷり休んでこい」と言われた。それに対して、「いえ、三日くらいで大丈夫です」と返答してしまっていた。
 しかし、今はそんなに繁忙期でもない。心に引っかかる業務も思い当らなかった。

 「…では、お邪魔だと思いますがよろしくお願いします」

 頭を下げると、女性たちも静かに頷いた。
 しびれた脚を伸ばしながら、一人また一人と立ち上がる。中年の女性たちは、土曜日の待ち合わせ場所と時間を復唱しあいながら、連れ立って去っていった。                         <つづく>


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