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人生は靴えらびと似ている。

私の足に合う靴がない。ほんとうに、ない。
横幅が広いけれど、かかとは細い。人差し指が長い。小指の横が突き出している。・・・自分の足に、文句を言い出したらキリがないんだけれど。しかも多分歩き方もオカシイから、すごく足に負担がかかる。
結果、合う靴がない。

そんな中、ニュージーランドで衝動買いした靴がとてもフィットし、ヘビーユーズしている。ニュージーランドに遊びにいく友達に「買ってきて!」とお願いするほどに、私の中では奇跡的な出会いの靴だったのだ。
ニュージーランドのショップの店員さん曰く、ブラジルのブランドらしい。(ギリギリの英語ヒアリング。)「PICCADILLY」というメーカーだ。

問題なのは、これが日本でまったく流通していないということだ。楽天ショップなどで多少出ているのだが、「歩きやすさ押し」なだけでステキじゃない。私が求めているのは、ヒールがあって、仕事でも履けて、ステキに見えて、そして靴擦れせずにダッシュができる靴だ。
心のそこから、流通させて欲しい。そうしなければ、靴の買い出しのためにブラジルにいかざるを得なくなる。

こんなことを書き出したのは、いよいよニュージーランドで購入した靴がボロボロになってきたからだ。
「これはもうダメかな・・・」と思い、いろいろな靴を試着してみるも、まったく合わない。試着で足を踏み込んだだけで、ストレスが目に見えるものばかりだ。自分に合う靴にことごとく出会えないと、なんだか世の中に拒絶されている気持ちにもなる。大げさかもしれないが、”あぁ、ここには自分がはまるものはないんだなぁ”と、そんな物悲しい気持ちが押し寄せてくる。

仕事と仕事の合間の靴えらびを諦めて、駅に向かって小走りしていたとき。
「あ、靴えらびと人生って似ているな」と、唐突に思った。
大金を払って”高級”とされる靴だからといって、足を痛めないわけではない。見た目がどんなにきらびやかでも、ショーケースで完璧なフォルムに見えたとしても、履いてみたら痛くて痛くて歩みを進めることができない。そんなことがある。
また、流行りだからといって手を出すと、これまたひどい目にあう。以前、エナメルの靴が流行っていたので、購入したところ、家から最寄り駅に着いた段階で足が痛くなった。こうなると、絆創膏という対症療法だけで、1日を過ごせるか甚だ不安となる。

靴が合わないのは、洋服があわないことよりも、ずっとずっと深刻な問題だ。
多少スカートがきつくたって「今日はお腹いっぱい食べられないな」と思う程度だ。しかし、”靴が合わない”はそうはいかない。もう一歩だって踏み出したくない。きれいな景色に囲まれていても、大好きな人と一緒に歩いていたとしても、頭は靴の中で血を流す足のことでいっぱい。もう、道の隅っこにうずくまりたくなってしまう。

人生と一緒という意味は、どんなにきらびやかな人生に見えても、誰もが羨むように生きていても、誰しもがそこに合わわけではないという意味だ。
これ以上ない幸せを生きているように見えても、もしかしたら、もう一歩だって歩けないほどに、靴の中で皮が剥けて血を流していることだってある。

高級だからといって、他の人が履いていてステキだったからといって、自分の靴を決めてはいけない。ウキウキしながら履けるか、クタクタに疲れたときも足を支えてくれるのか。自分とのフィット感を推し量る。
そこに、一般的な指標は通用しない。値段も流行りも関係ない。あるのは、ただただ自分とのマッチングだけだ。

そして、人生も同じこと。
誰かにベストマッチの人生が、私にフィットするとは限らない。
自分に合う靴を探すのに、疲れてしまうこともあるけれど。それでも歩をすすめるために、私たちは探し続ける。自分にぴったりの靴を。自分にぴったりの人生を。たぶん永遠に探し求めていくのだと思う。

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