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ライターの私がガチンコでインタビューについて考えてみた #ライター交流会 登壇を振り返り
9月5日 #ライター交流会 のイベントで、第3部の「インタビュー」について担当し、お話をさせていただいた。新潟県燕三条からモデレーターをしてくださった水澤 陽介さん…
現状はすべて「自分」の選択の結果である
今年、私のもっとも大きな気づきは、「母は不幸ではない」ということだった。
私は、ずっとずっと母は不幸だと思っていた。それはもう自分の中に染み込みすぎて、疑う余地すらないような、私にとっての「真実」だったのだ。
例えば、こんなふうに思っていたーー。
<最愛の人と思って、信じて結婚したのに、夫の裏切りにあい。それも、これでもか!これでもか!というほどの、ひどい仕打ちにあい続けてきた。
自分の親とも
家にいるのに「帰りたい」と思ったこと、ありますか?
「家」という意味をもつ英語は2つある。「House」と「Home」だ。「House」は、器としての家。「Home」は"我が家"としての家だという。2020年から2021年にかけて、私たちはこれまでにないくらい「家」に目を向けた。あなたにとっての家は、「House」と「Home」どちらだろう。
そうだ。私たちは #ステイホーム をしているのだろうか?
それとも、 #ステイハウス ?
この違いは、割
ガチガチの世界に生きるとはどういうことか?高校生の私が見た1シーン
澤田智洋さんの『ガチガチの世界をゆるめる』を読んで、高校時代のあるシーンが頭から離れなくなった。ガチガチの世界にいる時、私たちは何らかの息苦しさを感じながらも、「もっとガチガチになれば良い方向に向かうはず」という神話の中にいる。そして、さらに硬度を強める方向に進む。どんどんどんどん硬度が強まり、いつかポキリと折れて、気づく。
(周りをキョロキョロと見回しながら)あれ? このガチガチ必要だっけ?…
履歴書に書いていない私を書いてみる。
先日、ポートフォリにこれまでのライターと編集者の「仕事紹介」をさせてもらった。自分の携わってきた仕事を棚卸しする機会となり、なんだか少し前に進めた気がしている。
ポートフォリオは、「仕事の面」から見たこれまでの私なわけだが、もちろん、私のすべてではない。
ライター塾の同期で、ライターの先輩がこんなnoteを書いていた。「人は、履歴書に載らない事柄でできている 〜不要不急なものたち〜」。
「おお、
人間に期待しすぎる私はコロナを経験した後も、何も変わらないのではないかと震えている。
今日は私が実は一番不安になっていることを書きたいと思う。それは、自分がコロナにかかって苦しむことでも経済破綻でもなくて、コロナが収束(終息)しても社会が何も変わらないのではということだ。
afterコロナやwithコロナの社会が”どう変わるのか?”ということが、至るところで議論になっている。私自身も、きっとコロナ禍を経験した我々の価値観や生き方は大きく変わるはずだ……と思っていた。
し
会いたい人のことを思い、もう会えない人のことを飲み込めずにいる日。
昨日、知人が新型コロナウイルス感染症で亡くなったことを知った。間違いなくこれからやりたいことが、たくさんたくさんあるだろう方だった。パワフルだったし、生命力にもあふれていた。年齢は私とそう変わらない。
私は、この事実をうまく消化できずにいる。
「悲しい」とか「悔しい」とかそういう感情ではなく、「え?」という飲み込めないゴツゴツとした気持ちが喉元に引っかかっている。思えばこれまで私は、人の死をき
我慢をすると我慢を強いる人になる。我慢から楽しさへの転換を。
コロナ禍でパチンコに行ってしまう人やサーフィンに向かう人、沖縄への渡航を考えている人などが日々報道されている。もともと家で過ごすことが多い私は生活が大きく変わった感覚はそこまでないのだが、一方で家にいることへの我慢に「限界だ!」と叫ぶ人も少なくない。
これまで以上にどんどん「我慢」度が高まれば、
「あの家は昨日も行っていたのに今日もスーパーに行っている」
「あの一家は公園で遊んでいる!」
など、他
「正義」の反対は「悪」ではない
コロナによる自粛の動きが進み始めてからというもの、各人が自分たちの「正義」を公表する機会が増えたように思う。そういう私も、「なぜこうしないんだ」「もっとこうしないと!」という思いをいつもより強く抱くようになった。自分の考えが100%正しいとは思っていないし、経験したことのない事態に直面する今、誰の言うことも100%正しいとも思えない。
しかし、それでも、自分の中の「正義」が顔を出す頻度が増え