【書評】無理ゲー社会

こんにちは。Canvasの小黒です。
今回は橘玲氏の無理ゲー社会について簡単にまとめてみたいと思います。
例によってだいぶメモ感あるのでご了承ください!笑

無理ゲー社会とは

最初にこれだけまとめておくと、無理ゲー社会とは「自分が参加したくもない競争に参加させられている。現在の資本主義の状況」を無理ゲーと定義されています。つまり、生まれ持った才能や家庭環境、固定化された社会階層の中で、仕事などの金銭面だけでなく、恋愛、友人関係などで成功を収めるのが非常に厳しく感じる社会の状況を困難なゲームに例えて無理ゲーと呼んでいます。

気になった点

なぜリベラルな思考になるのか

マズローの欲求階層の話で、人間の欲望はどんどん脱物質化していき、自己承認、自己表現を求めていく。これは自分らしくありたいや自分がやりたいようにやるといった欲望と同義。
自分らしさを求める=他人にも自分らしく生きる権利を認めることになるので、自己表現欲求が高まれば高まるほど考え方はリベラルに進んでいく。
→自分はまさにこの考え。

リベラル化の問題点

リベラル化が進むと
①世界が複雑になる。
→各個人が自分の権利を主張するため、様々な調整が世界中で発生することになる。利害関係も複雑なため、全体として複雑性が増す。

②中間共同体が解体する。
→個人での活動が優先されるため、組織の概念も希薄になっていく

③自己責任が強調される
→個人が行う自由意志での行動はその分責任が伴う。
自助、共助、公助のうち共助が薄れていき、公的支援も財政的な余裕がなくなり、どんどん厳しくなると必然的に自助努力が求められる。
そのため自己責任論は強くなる(ネオリベ化)し、それに反対する左翼は公助の強化を訴える。

公平な環境は不平等を生む

メリトクラシー
→生まれや身分によって地位が決定された前近代社会から個人の業績(メリット)によって地位が決定される近代社会への転換によって広がった社会原理。アメリカンドリームなどは最たる例。
現代の課題として、結局個人の業績に強い相関を与える知能は遺伝が強く、不平等である。

では遺伝ガチャに当たった富裕層がそれ以外に再分配すれればいいのかというと以下二点で問題がある。

①遺伝ガチャに当たっても自由意志で勤労を拒むものに再分配するのかという議論。
②遺伝ガチャに外れた人は自分が名乗り出なければ行けないので名誉が傷つく。
→生活保護受けづらいとかと近い感情か。

しかも人間は本能的に有能なものに魅力を感じる。つまりメリトクラシーは本能である。

メリトクラシーを否定する考え方

ハイエク:自由主義リベラリズム
→経済と道徳は別である。
ジョン・ロールズ:
→大きなメリットを持つものはその富をコミュニティ全体に分け合うべき。


知的な格差に関して


知能だけでなく、努力ややる気も遺伝。
親の影響よりも周りの友達などの環境で左右される。だから環境を変えきるほうが影響が大きい。
ざっくり、遺伝半分、育ちが半分。

絶望死が増えている。
非大卒は大卒より2倍死んでいる

脳は陰謀論で思考する
人類数百万年の中で科学や論理が重視されだしたのはせいぜい400年。
理性的に考えないほうが普通。宗教や呪術、スピリチュアルなどに今まで頼ってきた。
かつ、世界で不公正なことがおきると、認知バイアスがかかって、心を守るために、認知を歪めてしまう。その最たるものが陰謀論やオカルトを本気で信じてしまう例。

恋愛市場でも格差が広がっている。
女性の社会進出が進んだ結果経済的独立を果たす女性が増えた。その結果結婚しなくても良い女性が増えて、結婚できない男性も増えた。
→結婚できない男性からすると、リベラルな「自由に生きたい、自分の人生を謳歌したい」という発想がひろがったせいで自分たちが結婚できないと思う。

資本主義の功罪

資本主義は夢を叶えるタイムマシンである。
スピードを上げるには資本を投下するのが一番。
ただ、副作用として格差を生む。格差を解消するのは「戦争、革命、崩壊、疫病」

もう一つの問題として、環境への負荷がある。
→欲望の脱物質化によって環境負荷をかけずに豊かになる時代が発生。

合理的な楽観主義(脱物質化)or道徳的な悲観主義(脱成長)のどちらの方向にすすむのか。
→人に欲望がある限り、資本主義はなくならない。なぜなら金融資本主義と自由主義経済は欲望を最も効率的に叶えてくれる。

リバタリアンパターナリズム
→政府がパターナリスティック(保護者的)に振る舞い、国民がより合理的な選択や行動をするように社会をデザインする仕組みのこと。

評判格差社会:
お金がコモディティ化してくるとイノベーションを起こす起業家精神や才能が貴重になる。つまり才能主義となる。→非常に残酷な世界となる。お金は分配できるが、評判は分配できない。

感想

自分は自由で生きることの 素晴らしさを疑った事はなかったが、 いわゆるリベラルな思想が引き起こすデメリットの大きさに考えさせられた。
特に努力でさえも遺伝の要素が大きければ、 自己責任や自由主義はむしろ世代を超えて引き継がれ格差がむしろ固定化される感じがした。
解決策が富の再分配やロールズのような思想になるのだろうが、それとて最後に言われている、評判がすべての社会になると非常に難しい。なぜなら評判(才能)は分配できないからである。人々が承認を得ながら幸福に生きていく設計を作るのは難易度が非常に高いと感じた。

引用部分

能力にちがいがある場合、公平(機会平等)と平等(結果平等)は原理的に両立しない。子どもたちの足の速さには差があるから、同じスタートラインに立たせて公平に競争させると、順位がついて不平等になる。

橘玲. 無理ゲー社会(小学館新書) (Japanese Edition) (p.67). Kindle 版.


現代では身分や階級などの制度による分別は許されておらず、それ以外の属性、つまり知能による選別を行っている。資格や大学共通試験など、一見公平に見える制度で上に上がるチャンスを与えられる社会であると思えているが、実際にこれは公平ではない。昨日は自分たちの努力によってもたらされる、つまり自分の自由意志の結果であると考えられているが、そうではない。知能も優位に遺伝が働くため、知能指数の高い両親を持った子供は知能が高くなる。
身分階級による格差は解体されたが、その分知能による格差は拡大傾向となる。

自分が参加したくもない競争に参加させられている。現在の資本主義の状況を無理ゲーと呼んでいる。

公平(機会平等)」と「平等(結果平等)」を定義しておこう。この誤用・誤解が、格差についての議論をいたずらに混乱させているからだ。ここではそれを 50メートル競走で説明してみよう。「公平」とは、子どもたちが全員同じスタートラインに立ち、同時に走り始めることだ。しかし足の速さにはちがいがあるので、順位がついて結果は「平等」にはならない。  それに対して、足の遅い子どもを前から、速い子どもを後ろからスタートさせて全員が同時にゴールすれば結果は「平等」になるが、「公平」ではなくなる。

格差のなにが問題なのか。  ひとつは、競争の条件が公平ではないと感じているひとがいることだ。  アメリカでは、奴隷制の負の遺産によって黒人に不公平な機会しか与えられていないとされる一方で、それを是正するためのアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)によって、白人労働者が不公平な競争を強いられていると主張するひとたちもいる。両者の意見は折り合わないだろうが、自分たちが不公平の「犠牲者」ということでは一致している。  もうひとつは、競争の結果は受け入れるとしても、自分がその競争をさせられるのは理不尽だと考えるひとが声を上げはじめたことだ。  私がテニスで錦織圭と、将棋で藤井聡太と競えば、100回やって100回とも負けるだろう。私はその結果を不公平とは思わないが、自らの意思に反してそのようなゲームを強いられたことはとてつもなく理不尽だと感じるにちがいない。  このようにして、右からも左からも、自分たちは攻略不可能なゲーム(無理ゲー)に同意なく参加させられているとの不満が噴出するようになった。「ディープステイト(闇の政府)」が世界を支配しているというQアノンの陰謀論も、資本主義の「システム」がひとびとを搾取・統制しているという「レフト(左翼)」や「プログレッシブ(進歩派)」の主張も、あるいは「ウォール街を占拠せよ」「ジレジョーヌ(黄色いベスト)運動」「BLM(ブラック・ライヴズ・マター)」など欧米で頻発する抗議行動も、その現代的な亜種として理解できるだろう。

 私はこれまで繰り返し、「日本も世界もリベラル化している」と述べてきた。ここでいう「リベラル」は政治イデオロギーのことではなく、「自分の人生は自分で決める」「すべてのひとが〝自分らしく生きられる〟社会を目指すべきだ」という価値観のことだ。 「そんなの当たり前じゃないか」と思うかもしれないが、これは1960年代にアメリカ西海岸(ヒッピームーヴメント)で始まり、その後、パンデミックのように世界じゅうに広がっていったきわめて奇矯な考え方だ。数百万年の人類の歴史のなかで、ほとんどのひとは「自由に生きる」などという奇妙奇天烈なことを想像したことすらなかっただろう。

マイケル・ヤングがメリットを「知能+努力」と定義したように、成功にとって努力などの性格特性が重要なのは間違いない。だがここで無視されているのは行動遺伝学の第1原則で、知能だけでなく努力にも遺伝の影響がある。図表4でも、遺伝率は「やる気」が57%、「集中力」が44%で、努力できるかどうかのおよそ半分は遺伝で決まる。  児童精神科医の宮口幸治は、ベストセラーとなった『ケーキを切れない非行少年たち』の続編である『どうしても頑張れない人たち』で、「頑張るひとを応援する」という善意の残酷さについて書いている。宮口が医療少年院などで出会う少年たちは、頑張りたいと思っているかもしれないが、それでも頑張れないのだ。  その原因のすべてが生得的なものだとはいえないが、幼児期の虐待や育児放棄など、本人の意志ではどうしようもないものがほとんどだ。そして宮口は、ほんとうに支援が必要なのは、わたしたちが支援したくないと思うような「頑張れない子どもたち」だという。  知能の影響を否定しようとするひとたちは、意志力のような「成功に役立つ性格」を過大評価し、「頑張る」ことを成功の条件とする。これを逆にいうと、「頑張れない(努力しない)ひと」は支援される資格がないのだ。  知能による選別を否定すると、その空白を、性格(頑張っているか、いないか)による選別が埋めることになる。テストの点数で序列化されるのと、性格(人間性)を否定されることの、どちらがより残酷だろうか。


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