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『ラーメンの語られざる歴史』(ジョージ・ソルト/国書刊行会)を読んで ~ラーメン県ができるまで~

総務省の家計調査で中華そばにかける外食費用は山形市が全国1位となり、ぼくの故郷・山形はいつの間にかラーメンで町おこしをするほどの「ラーメン県」になりました。山形のラーメンは、関東大震災で被災した横浜中華街の職人たちが湯治に蔵王を訪れ、そこで地元の蕎麦屋にラーメンを教えたのが始まりとする説が濃厚です。しかし、その職人たちは、なぜ栃木でも宮城でも福島でもなく、山形を訪れたのでしょうか? なぜ山形の蕎麦屋がこれほどラーメンを取り入れたのでしょうか? そこを調べていきたいと思っています。


◤気になったポイント◢

・19世紀後半から20世紀初頭、日本が工業化され、より都市化していくにつれ、それまで街の生活で優勢だった蕎麦屋と落語は、中華料理と映画館に取って代わられた。
・1890年代の賃金労働者の増加は、都市部の食堂や外食施設への大きな需要を生み出した。
・工員の数は第一次世界大戦中に140万人増加し、農業人口は約120万人減少した。工業生産高の増加と人口構成の変化は東京の飲食業への指摘となり、中華料理店、洋食屋、屋台という三つの業態が拡大する結果となった。
・1910年~20年代、「支那そば」は田舎では東京の変貌のシンボルだった。
・1920年代、内務省の栄養研究所は産業労働者の生産性を保つために適切な栄養を与えることが重要と考え、田舎出身の多数の徴収兵が中国料理を体験することになった。
・1926年に約5万人の都市だった佐野には屋台を含めて160軒の「支那そば」屋があった。近隣に小麦畑や製粉工場があり、工場労働者(佐野は繊維関係)が多かった。
・1942年の食糧管理法によって大衆食堂の食べ物は都市から消失する。
・戦後、屋台の「支那そば」と餃子の人気が高まったのは、スタミナがつくと考えられたから。この背景に貯蔵米の供給が最低レベルになったことがある。

◤本書内で紹介されている気になった文献◢

・『文化麺類学・ラーメン篇』(奥山忠政/明石書店)
・『ラーメン大好き!!』(東海林さだお/新潮文庫)
・『にっぽんラーメン物語』(小菅桂子/講談社+アルファ新書)

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