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「JR福知山線脱線事故」で私の妻が経験したこと

※この原稿は、2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故から、約1年半後に妻が書き残したものです。

その日、夫は少し疲れ気味に家を出ました。しばらく終電帰りの日が続き、その週も忙しくなるのがわかっていたからです。元気のない声で「行って来ます」と夫が家を出てから1時間ほど経った9時30分頃、自宅の電話が鳴りました。電話は夫からでした。私は何か伝言でもあるのかなと、気楽に「どうしたの?」と尋ねました。しかし夫は荒い息遣いでこう答えました。「事故や…周りで人がいっぱい死んでる…」普段からあまり取り乱すことのない夫のうろたえた声に私は動揺し、瞬時にただ事ではないと思いました。状況はまるでわかりませんでしたが、私は勢い込んで夫に怪我はないのかと尋ねました。

「俺は大丈夫。足が痛いけど…もしかしたら折れてるかもしれへんわ」
「大丈夫!?」「大丈夫。救助を手伝うからもう切るわ!」

そう言うと、夫は一方的に電話を切りました。一体彼の身に何が起こったのかを理解することができず、私は少しの間呆然としましたが、とりあえず救助を手伝うということは大きな怪我を負ったわけではないんだ…と胸をなでおろしました。

はっと気がつき、テレビをつけて画面に見入っていると、しばらくして速報を知らせるテロップが流れました。その時の記憶が定かではないのですが、おそらく「脱線」という表示ではなく、「列車の踏み切り事故」というニュアンスの速報だったように思います。それから徐々にテレビ放送で事故の映像が流れ始め、私は初めて夫が大惨事に巻き込まれたことを知りました。夫からの電話で、彼は生きているんだということは分かっていましたが、ことの重大さに私はパニック状態になりました。「どうしよう、どうしよう、どうしよう…」頭の中をグルグルとその言葉だけが空回りしていました。
何をすればいいのかもわからず混乱しているところに、実家の母から電話がありました。受話器を取って母の声を聞いた途端、わなわなと身体が震え、涙が流れて上手く話すことができず、夫は大丈夫だと伝えるのが精一杯でした。心配でたまらず、何度も夫の携帯に電話をしようと思いましたが、救助の邪魔になるかもしれないと思ったので必死に堪えました。

その後、また電話が鳴ったので急いで受話器を取りました。夫は「誰か知ってる人乗ってへんかったかな…近所の人とか結構乗ってはったはずやけど、大丈夫やったかな…」としきりに気にしていました。私が会社へ連絡しておこうかと訪ねると、頼むとのことだったのですぐに会社に連絡しましたが、あまり事故の深刻さが伝わっていないようでした。今考えると、既に会社に出勤していた人たちには大事故の発生を知るすべもなく、夫の状況を理解できなかったとしても無理もありませんでした。それほど、この事故は日常には絶対ありえない出来事だったのです。私でさえ、遅刻はしても夫は出勤できるだろうと思っていたほどなのですから。

しばらくすると、友人から夫が朝日放送のインタビューに答えていたとの連絡があり、私は慌ててチャンネルを合わせました。そこには、こめかみ辺りに傷があり、唇を切っている夫の姿が映っていました。インタビューに答えている彼の様子から、相当のショックを受けていることがわかりましたが、身体に大きな損傷はなさそうだったので、「ああ、本当に大丈夫だったんだな…」とひと安心しました。
それからもひっきりなしに友人、知人が安否を心配して電話をかけてきてくれましたので、私はその対応に追われましたが、電話がかかるたびに夫ではないかとすがるような思いで電話に飛びつきました。普段はあまりこまめに連絡をくれることのない夫ですが、この日は家で待つ私の気持ちを察してくれたのか、何度も電話をくれました。それは私にとって本当にありがたいことでした。
その後、夫から病院に搬送されるらしいと連絡がありましたが、何処の病院に運ばれるのかは本人もわからない様子で、病院がわかったら電話して欲しいと頼みましたが、結局診察を終えるまで連絡は取れませんでした。

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