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エゼキエル4章1節ー17節

「危機を前に」
コミュニケーションの手段と言えば普通は言葉です。しかし、神様がエゼキエルに命じた方法は奇妙でした。粘土板にエルサレムの町の地図を描き、そこに陣を敷いて包囲し、鉄の板で町を隔てよとは。さしずめ子どものブロック遊びのようではないですか。これは遊びどころか、神がバビロンを使ってエルサレムを攻めるというシミュレーションなのです。言葉によらない象徴的行為による、無言劇のような形のひとつの預言なのです。

言葉がなかなか通じない相手には、無言のふるまいのほうがまだ伝わるかもしれない。なんとしてもメッセージを伝えたい神の熱い思いをくむべきです。エルサレムの住民はたかをくくっています。敵国バビロンの危機は去ったと。いいえ。更なる危機が来ます。私たちも甘い見通しは棄てたほうがいい。神に徹底的に粉々に砕かれてからでないと与えられない希望があるのです。神は取り消す気がない鉄の意志で粘土版に刻み悔い改めを迫られます。

このような厳しい告知をするエゼキエルにはなんの心の痛みもなかったのでしょうか。そうではありません。彼は左わきを下に、窮屈な姿で寝ないといけません。しかも390日と40日という長い月日に渡って。この数字が何の意味かは諸説ありますが、イスラエルのための刑罰の期間と関係があります。つまりエゼキエルは自らの身体をもって、イスラエルの苦しみを一緒になって担い、背負う痛みを通る必要があるのでした。

私たちが福音を告げ知らせる時、自分にはなんの痛みも、苦しみも、傷もないと考えてはいけません。福音のために奉仕する者には苦しみはつきものなのです。むしろ人々の罪のために、自ら長きに渡って身体的な苦痛や不自由さえも味合わされるという体験もあるかもしれないのです。もしも、この過酷な働きに慰めがあるとするならば、それが決して無限の苦しみではないということでしょう。その痛みには終わりがある。期間が限定されています。

神の奇妙な命令は続きます。今度は一日のパンの量と水の量を極端に制限せよと言うのです。これはバビロンによるエルサレム包囲によってやってくる食糧危機を前もって告げるものでした。しかも燃料不足も深刻で、パンを焼く燃料にも事欠く日が来ます。人糞でパンを焼けとはそういうことです。燃料が人糞しかない現実。これには宗教的汚れに敏感な祭司の教育を受けたエゼキエルが訴えます。主よ、それはできません。律法に反します。

神は、その訴えを聞きいれ、人糞ではなく牛の糞でパンを焼くことを許可して下さるのです。私たちは、主のために仕えたいという純粋な気持ちを持っています。しかし同時に人間的な限界を持っていて出来ない奉仕があることも確かです。主はその限界を超えてまで従えと言われる無慈悲なお方ではありません。異国の地で祭儀的清浄さを保つことの難しさを主は誰よりも知りぬかれます。その主がクリスチャンは少数派のこの日本で、私たちが信仰を貫くことの困難さを思いやられないはずがないではありませんか。

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