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エゼキエル7章1節ー27節

「終わりを見つめて」
何かが突然終わったように思える時があります。イスラエルもいきなり大国バビロンの軍隊に攻められ、滅びます。夢にも思っていないことでした。まさか自分の国が消えるなんて。まさか自分たちの田畑が荒らされ、家を失い、愛する家族を奪われるなんて。言葉も違う遠い国に連行される日が来るなんて。しかし突然とは言えません。このままでは破滅だと神が預言者を遣わし、何度も警告を与えていたのに、彼らは聞こうとはしなかったのですから。

遠い昔の遠い国の話でしょうか。私たちだって、昨日もきょうも明日もつつがなく日常生活が続くものだと単純に信じています。近所で葬儀があっても、知人が重い病気で倒れても、自分の人生にはそんなことは起きない、まだまだ先だと、自分の終わりを意識することは少ないのです。そうなのでしょうか。私たちの人生をご覧になられる正義の神が、おりにふれて危険を知らせ、警告を鳴らしておられる。その語りかけを聞きのがすわけにはいきません。

そもそも、何故、破滅の道をひた走ることになったのでしょう。原因はうぬぼれにありました。自分たちは神に選ばれた特別な民だとの意識。それが裏目に出て美しい香りの花ではなく、不義が悪の華を咲かせています。指導者の象徴である杖からも、暴虐しか生まれていない。民を苦しめる姿は今ならパワハラと呼ばれるかもしれません。こういう理不尽がまかり通っていながら、イスラエルは永遠に不滅だとはよくも言えたものです。

救われた事実のみに満足し、その召しに答えていこうとしないなら。そんな教会なら終わらせたほうがましだと神様に言われるかもしれないのです。救いに答え、どういう花を咲かせ、どういう実をつけ、どういう成長をしてきたか。主の期待はそこにあります。自分は信仰が長いから特別だ。自分はクリスチャン家庭だから違う。いいえ。救いだけを切り札にして開き直っていてはいけない。そのうぬぼれた安心感につまづきの臭いが漂っています。

それなら、必ず訪れる終わりを見つめて何をすればいいのでしょう。イスラエルは国家存亡の危機を前になすすべがありませんでした。見張りがラッパを鳴らしても、敵国の圧倒的軍事力の前に何もできません。疫病と飢饉が襲い、財産があってももはや何の役にも立ちません。最後に預言者や、祭司や、長老と言った宗教家に助言を求めますが、前代未聞の危機を前に、経験値も、知恵も、伝統もなんの答えも出せずに顔をこわばらせるだけです。

それにしても、日常生活とはなんと脆く崩れていくものでしょうか。なんとあっけなく、簡単に基盤を失うものでしょうか。ありとあらゆる価値観が危機を前にもう一度洗いざらい、根本的に問われないといけません。今まで大切だと思っていたものが意味を失い、今までどうでもいいと思っていたものが意味を帯びてくる。当たり前の日常生活ではとうてい気づけなかった。しかし、人は終わりを目の前にして、このような逆転も起こるものです。

それもそのはずです。神がイスラエルの敵となられたのです。神が味方になって下さる人生を送らずして、どうして人生が守られるでしょうか。角度を変えるならば、襲いくる不測の問題が、私たちを神に立ち返らせる機会ともなり得ます。向きを変えて、神に心を上げるチャンスにするわけにはいかないのでしょうか。厳しい審判のただ中においてさえ、なおもわたしの宝と呼んで下さる神様ですから。この愛を重く受け止めないわけにはいきません。

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