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エゼキエル3章1節-11節

「み言葉による喜び」
エゼキエルが食べたものにはさすがに意表をつかされます。なんと神から手渡された巻物です。もっと意外なのはその味で蜜のように甘かったと言うことです。この巻物はこれから彼が伝える使信そのもの。厳しい内容です。なにしろ悲しみと嘆きと災いの言葉ですから。きっと苦々しいものだろうと想像して覚悟を決めてもおかしくない。ところが、実際は甘い喜びに満たされたものであろうとは。

今まで全て順調で予定通りに終わりそうだと言う人はまずいません。思いもよらない突然の一大事が降りかかった方もいる。戸惑い、あわて、苦しみ、悩み、いまだに引きずっていますという人もいるでしょうか。しかし主はいいからそれを食べてしまえと言われる。腹におさめ、受け止め、引き受けてみなさい。案外、その体験は味わってみるならば喜びと感謝に変わる。苦いものを苦いままで終わらせないと約束なさる方がここにおられます。

いいえ、この喜びを何としても味わう必要がある。と言うのはこれからエゼキエルがする奉仕は過酷を極めるからです。語っても、語っても誰も聞こうとはしない。相手は神の民イスラエルなのに。人びとは今も厳しい真実よりも、自分を気持ちよくさせるにせ預言を好みます。その困難さは神を知らぬ外国人に語ったほうがまだ受け入れると思わせるほどです。神は甘い言葉でスカウトはなさらない。現実は現実として覚悟しないといけないのです。

だからと言って、この厳しさにひるむことはありません。福音を告げる者は、福音そのものの持つ喜びを味わい尽くしている者なのです。み言葉によって喜び、隠れたところで神との深い関係性に喜びを見出している者なのです。この喜びの体験に支えられているからこそ、語らずにはいられないのです。み言葉の喜びに裏打ちされて、どんな困難にぶつかっても、打ちのめされることなく、何度でも立ち上がってみせましょう。

この喜びを知っている者は、自分の背負う奉仕の重さを軽くしてほしいなどと望んではいけない。人々の心がいきなり柔らかくなることも期待してはいけない。神は決して状況を変えることを約束はなさいません。むしろ、この厳しい環境にも耐えられるように私たちを強くし、ダイヤモンドのように固くしようと約束して下さいます。福音を水増ししてはいけないのです。このメッセージを足しても引いてもいけません。

どうやって神は私たちの心を強くするのでしょうか。やはりみ言葉によってという他ありません。み言葉を告げる者は、誰かに語る前に、まずは自らみ言葉を心におさめるのです。自分の耳で聞くのです。自分には関係のない言葉であるかのように客観的に相手に語ってはいけない。何よりもこの私が必要としている言葉です。あなた自身がうち震え、感動するのです。もとより塵に等しい弱い人の子が立ち上がる力はこのみ言葉による以外にない。

振り返ってみますとつらい時、あのみ言葉で強められた。悲しい時、このみ言葉で支えられた。ぞういう体験があったはずです。み言葉こそわたしがよって立つ根拠である。それこそ主がわたしのうちに生きておられる証でなくてなんでしょうか。人は食べないと生きていくことはできません。同じく私たちは神の言葉を味あわずして生きられない。み言葉からやってくる喜びのうちに過ごしましょうか。

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