Koizumi Satoshi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、岡山神召キリスト教会、福山キリスト教会の牧師。…

Koizumi Satoshi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、岡山神召キリスト教会、福山キリスト教会の牧師。礼拝説教の要約、今まで作成してきた教会のデボーションガイドやエッセイなどを掲載していきます。写真の転載はお断りします。

マガジン

  • 福山説教要約集

    福山キリスト教会での礼拝説教の要約です。

  • 説教要約集

    過去の説教要約を掲載しています。

  • バイブルトレーニング

    クリスチャン向けの脳トレ。子どもから高齢者まで楽しく、聖書に親しみながら、ゲーム感覚で脳を活性化していきましょう。初級編、中級編各レベルが違います。

  • 岡山

    岡山県とキリスト教についてのエッセイ

  • 福山

    福山とキリスト教についてのエッセイです。

最近の記事

エゼキエル書15章1節ー8節

「枝となる時」 エゼキエルが注目するのは植物でもぶどうです。実でも果汁でもなく木の枝そのものです。そもそもぶどうは折れやすく、弱く、曲がっていて木材には向いていません。加工しても小さな木釘にさえできない役に立たない木。これがイスラエルの象徴です。 だからこそ不思議なのです。このような地味で目立たない木が豊かな実をつける事実が。私たちも決して立派な人間ではなかった。地味で平凡で時に人よりも劣るところのある存在でしかない者。そのような者が神に選ばれ、神に救われ、多くの実を結ぶ者

    • ヨハネの手紙第一2章28節ー29節

      「御子の現れるとき」 ヨハネは御子の現れる時について語っているのです。この手紙が書かれたのはキリストの再臨が語られ始めてから何十年も経った時代なのです。ところが、それまで再臨は来ませんでした。それなのにどれだけ月日が流れても、それでもなお、御子の現れる再臨の時について語られ続けているのです。それほど再臨信仰は大切で、私たち自身も再臨を意識する緊張感をもって歩むことが求められていると言ってもいいでしょう。 ところが、異端の人たちがいくら神を知っているといい、神秘体験を自慢して

      • テモテの手紙第一5章1節ー2節

        「家族とされて」 教会は神の家族と呼ばれます。あらゆる年齢層が集う礼拝ですから、個々にふさわしい具体的な配慮が求められます。パウロは老人を叱るなと戒めます。年若いテモテが軽んじられていたことが背景にあります。年配の信徒がパウロと比べて年下のテモテの欠点や未熟を批判するのです。その声を一喝するだけで済ませてはいけません。 むしろ勧めるのです。教え諭すのです。忍耐強く尊敬を込めて祝福を祈る。間違いは矯正できるように寄り添う態度です。感情的に売り言葉に買い言葉ではいけないのです。

        • 使徒言行録7章44節ー60節

          「神の家」 ステファノの説教が続きます。彼が訴えられた理由はモーセの律法と神殿を冒涜したとされたからです。今までステファノはモーセについて彼の信じるところを述べてきました。ここからは神殿について述べていきます。彼は神殿が建つ前の幕屋について振り返ります。神の命令通りに造られた幕屋は、モーセの時代からダビデの時代に存続しますが、その年数は神殿が造られてからバビロンに破壊されるまでの年数以上に長かった事実を指摘するのです。 携帯可能な幕屋ではあったとしても、そこで神が民と出会う

        エゼキエル書15章1節ー8節

        マガジン

        • 福山説教要約集
          50本
        • 説教要約集
          89本
        • バイブルトレーニング
          2本
          ¥150
        • 岡山
          9本
        • 福山
          8本
        • エッセイ
          48本

        記事

          ヨハネの手紙第一2章26節ー27節

          「御子にとどまる」 誰から頂いたプレゼントなのかを確かめるものです。ヨハネはここで油について語るのです。しかも、それは御子から注がれた油だと言うのです。油とは聖霊のことです。聖霊は主イエスキリストから私たちに注がれるのです。聖霊は何をするのかというと、御子イエス様がどういう方であるかを明らかに教えて下さいます。聖霊がキリストを離れて無関係に働くなどということはあり得ない話です。聖霊は御子を証しする霊なのですから。 従って、誰からも教えを受ける必要がないとヨハネは言うのです。

          ヨハネの手紙第一2章26節ー27節

          使徒言行録16章1節ー5節

          「母に注がれる神のあわれみ」 青年テモテと出会うパウロ。違う人種の結婚をよく思わない時代、母も白い目で見られましょう。この地はかつて激しい迫害で、パウロがいのちの危機さえ感じた地域。ここで救われ留まった彼女の人生の苦労を思います。 わが子にいいところを見せたい親。しかし情けない親の姿を晒す現実もあります。完璧ではないことで後悔を引きずってはなりません。いたらない点があっても、主のあわれみによって子は育ちます。祖母と母から受け継がれたような、信仰の祈りがあれば。 ところで、

          使徒言行録16章1節ー5節

          ヨハネの手紙第一2章24節ー25節

          「初めから聞いていたこと」 心にとどめるようにとヨハネは言うのです。何をでしょうか。初めから聞いたことです。初めからとあるのですから、教会にとって初耳のことを今から語ろうと言うのではありません。何しろ、伝えられた福音のことなのですから。しかも過去から連綿と手渡され続けてきた福音です。うわっつらだけの理解では困るのです。これが本当の意味で自分のものとなるようにしっかりと心にとどめる必要があると言うのです。 中でも特にこの手紙がずっと強調してきたキリストの受肉と贖罪の信仰にとど

          ヨハネの手紙第一2章24節ー25節

          使徒言行録7章17節ー43節

          「主なる神の手の働きによって」 ステファノは、長い説教を語る中でイスラエルの歴史を振り返っていきます。ここからはモーセについて見つめられているのです。モーセを冒涜すると訴えられているわけですから、彼がモーセをどのように理解しているかを伝える必要があるからでしょう。エジプトの王女に拾われ、当時の最高の教育を受けたモーセは、長じて同胞のために働こうとします。しかし、受け入れられずに挫折して都落ちし、私的な生活の中に閉じこもってしまいました。 自分の手、自分の熱意や情熱、自分の決

          使徒言行録7章17節ー43節

          エゼキエル書14章

          「のがれん」 人生には何が何でも逃げ切らないといけない事態があります。神は罪のおそろしさを誰よりもご存じのお方です。だからこそ、すぐに悔い改め、心を神に向き直し、罪からはなれるようにと望んでおられます。イスラエルの長老がエゼキエルに助言を求めても手放しでは喜べません。何故なら、彼らは偶像崇拝の罪を続けながら、二股をかけて神を求め、しかも自分に都合のいい助言が欲しいに過ぎません。神はその祈りに答えることはできません。 私たちも祈りがなかなか届かない現実を体験します。理由は幾つ

          エゼキエル書14章

          ヨハネの手紙第一2章22節ー23節

          「主イエスはキリスト」 ヨハネの時代の教会は異端の教えの流行に悩まされていました。ヨハネはこういう人々をはっきりと偽り者だと告げています。具体的にどこがどう偽りなのでしょうか。主イエスがキリストであることを否定するからです。実際、彼らは主イエスの受肉を否定し、十字架の贖罪をも否定します。その結果、罪の力も過小評価し、罪からの救いも強調しなくなるのです。しかし主は私たちを肉体ごと救うために肉体ごと十字架で死んで下さったお方です。 それでは、主イエスを認めないとどうなってしまう

          ヨハネの手紙第一2章22節ー23節

          使徒言行録7章1節ー16節

          「栄光の神の約束」 最高法院に引き渡されたステファノは大祭司の前で説教を始めます。長い説教を何回かに分けて学びましょう。その殆どは旧約聖書に記されたイスラエルの歴史です。死刑が待つ裁判の席で悠長にも思えます。しかしここに彼の信じていることが告白されています。まず語られるのは族長アブラハムです。大切なのは信仰とは旅立つことだという点です。物理的移動とは限りません。今までの考えから離れて約束のみ言葉を信じて歩むことが信仰です。 土地を子孫に所有させる神の約束はありました。しか

          使徒言行録7章1節ー16節

          ヨハネの手紙第一2章20節ー21節

          「油を注がれて」 自分の信仰について自信を失ってしまうことがあるものです。この時の教会がまさにそういう状態だったのです。もっとも無理もない事情はありました。今まで信仰の仲間だと思っていた親しい人たちが教会を離れていく痛みがあったのですから。そういう危機に、冷静でおれるはずがないのです。しかもこの人たちは、教会とは別の集団を形成し、これこそが最新の教えであって、高尚な哲学思想だから親切に教えてあげましょうとも吹き込むのです。 ヨハネはこの痛みと動揺の中にある教会に語り掛けてい

          ヨハネの手紙第一2章20節ー21節

          エゼキエル書13章

          「前を向いて」 災害に限りません。病気、人間関係、人生にのしかかる困難。生きていくには力がいります。エゼキエルの時代、預言者が真摯に神の言葉を語っても人々が聞こうとしないのにも理由がありました。にせ預言者と呼ばれる者たちが人々の間を歩き回り、まことしやかな甘い言葉で人々を唆していたからです。いつの時代もにせ預言は後を絶たない。にせ預言を喜んで聞いて受け入れる人々との共犯関係がある以上は。 目の前の困難が大きすぎると、人は現実に目を向けようとはしません。かえって自分の課題や弱

          エゼキエル書13章

          テモテの手紙第一4章13節ー16節

          「この言葉とともに歩め」 どんな仕事に就こうとやるべき働きがあります。パウロもここで牧師の働きについて語るのです。そのひとつが礼拝での旧約聖書の朗読です。ひとりひとりが聖書を持てる時代ではありません。皆が字を読めるわけでもない。従ってエペソ教会の礼拝の場ではテモテが聖書を読み聞かせるのです。しかし朗読だけで済ませていいのではありません。聖書は解き明かされる必要があるのです。それを説教と呼ぶわけです。それが牧師の大切な勤めなのです。 それでは、教えとは一体なんのことでしょうか

          テモテの手紙第一4章13節ー16節

          ヨハネの第一の手紙2章18節ー19節

          「終わりの時」 ヨハネは教会に対して終わりの時が来ていますと告げるのです。私たちは終わりを信じる信仰に生きているのです。なんとなく終わるのではありません。神が意志をもって終わらせるのです。ここから理解できるのは悪が支配する世界はいつまでも続かないという希望です。どんな苦しみにも困難にも終わりがあると言うのです。なぜならキリストの再臨によって神の国が完成するからなのです。これが教会がずっと大切にしてきた信仰なのです。 但し、世界がだんだんよくなって終わりが来るわけではありませ

          ヨハネの第一の手紙2章18節ー19節

          使徒言行録6章8節ー15節

          「恵みと力に満ちて」 教会で起こった問題解決のために新しく7人の奉仕者が選ばれました。聖書はその中のひとりステファノの活動に光をあてます。彼は恵みと力に満ちていたと紹介されています。同時に彼は信仰と聖霊に満ちてもいましたし、知恵と霊にも満ちています。即ち、信仰も力も知恵も自分で得たものではないのです。すべて聖霊によって与えられたものだと説明されているのです。この聖霊こそがしるしと不思議を伴う目覚ましい伝道を可能にするのです。 伝道の働きとは決して自分の能力やがんばりに頼って

          使徒言行録6章8節ー15節