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「陽徳」と「隠徳」の誤解。無償の愛の皮を被った都合の愛。

大谷翔平選手の振る舞いでも注目を集めた「徳を積む」という話。
普段から徳を積むことを大切にしている方も多いように思います。

徳を積むという話に触れたことがある方であれば、
徳には「陽徳」と「隠徳」があるという話を聞いたことがあるかと思います。

一般的な「陽徳」と「隠徳」についての解釈は
以下のような感じではないでしょうか。

陽徳とは、
簡単に言うと「人の目につく徳積み」のこと。
人に喜ばれたり感謝されたりする行いのこと。
世間によく知られるようになる徳行。

隠徳とは、
誰にも知られることなく、感謝されることもなく、
良い行いをするのが陰徳です。
人に知られないよう施す恩徳。

寄付したことをSNSで投稿するなどして、
承認欲求を満たすような善行を陽徳。

匿名で寄付し、感謝も承認欲求などの見返りを
一切期待しないでするような善行を隠徳。

その行為が、人に知られるかどうか、「ありがとう」と言われるかどうか、
のような認識の方も多いのではないでしょうか。

そして、隠徳を積もうとするわけですが、
ここに大きな誤解が生じています。

「人知れず善行を行う。」
このことに意味はありません。

重要なのは、その出どころです。

天国から湧き出る水か、地獄から湧き出た水か。

善い行いをすれば、天国に行き、
悪い行いをすれば、地獄に行く。

こんなお話は家庭の教育の中でも出てきます。
我が家は、特段宗教などはやっておりませんでしたが、子供の頃、母親にそのような話をされていたように思います。
(よくお説教されていたので・・・。)

天国に行くのか、地獄に行くのか「行い」は関係ありません。
天国も地獄も、 私のあり方一つで、 一瞬で往来できます。

天国に行きたい私が、 天国に行きたいから、 善い事をする。
そのような地獄の心持ちで 善い事をしても、 その瞬間から地獄にいます。

天国から湧き出た水(行い)なのか、
地獄から湧き出た水(行い)なのか、
着目するポイントはそこです。

まあここまで、悪い顔はしてないと思いますが笑

さて、徳の話に戻りますが、
どんな行為をするか、人に知られるかどうかという現象はどちらでもいいのです。

そこにわずかでも「自分の都合」が乗っているのであれば、
人に知られない行為だとしても「隠徳」とは言えません。

人に知られる行為だとしてもそこに「自分の都合」が少しも乗っていないのであれば、それは「隠徳」と言えるものになります。

「徳を積みたいから、人に知られない善行をしよう。」
という私はどのような私でしょうか。

天国の心持ち、それは、自分の都合に支配されない私。
地獄の心持ち、それは、自分の都合に支配されている私。

前者の私で行う善行を隠徳。
後者の私で行う善行を陽徳。

天国に行きたいから、善いことをしよう。
地獄に行きたくないから、善いことをしよう。
運を貯めたいから、善いことをしよう。 等々。

これらは都合に塗れているように思いますが、
いかがでしょうか。

(こういう話をすると「やらない善より、やる偽善」みたいな話を持ち出したくなる方もいるようですが、それは、だいぶ表面的な話ではあるので、
ここでは触れません。)

無償の愛は、無都合の行い。


 さて、SNSを見ていると「無償の愛」という言葉がよく出てきます。
これが無償の愛だ、これは無償の愛ではないと、行為自体を見て議論されていたり、無償の愛が大切だ!と言っている人もいます。

「無償の愛」というのは「無都合の行い」であることは、
ここまで読み進めて頂いた方ならわかるように思います。

都合を握りしめている時、多くの場合、それは無自覚になっています。

その時は隠徳だ、無償の愛だと思っていても、
わずかにでもそこに都合が乗っているから、
何か気に食わない出来事があったり、余裕がなくなったりしてくると
「あの時してあげた"のに"」という思いが湧いてきます。

いつも誰かの顔色を窺っている人、
いい子・いい人であろうとする人、
自己犠牲してまで、誰かによく思われようとする人などは
この「のにのに病」を患っていることが多いように思います。

のにのに病は、
時間差で発症します。
ウイルスはその時に握った「都合」です。

1週間、1ヶ月、半年、1年、10年、どこでその時のウイルスが
暴れ出すかわかりませんが、どこかで「のに」が出てきます。

「あの時、私はこんなにしてあげたのに!」
という思いが湧きがちな人は、
どこかで握り込んだ「自己都合」が発動しているに過ぎません。

「無償の愛」の皮を被った「都合の愛」。
これが多くの人を窮屈にさせているように思います。

あらゆる「都合」から自由になった時、
その区別がつくようになります。


無償の愛は、無都合の善行ではなく、
無償の愛は、無都合の行いです。

善行と言った時、
すでにそこに何か「都合」「意図」が乗っています。

そのわずかな都合すらも降ろせた時。
その"私"から出た顕れは、全てが「徳」なのかも知れません。

さて、ここまで読み進めていただいた方は、
冒頭においた、以下の定義にもう違和感があるのではないでしょうか。
だいぶ表層的な話に見えてくるようにも思いますが、いかがでしょう。

陽徳とは、
簡単に言うと「人の目につく徳積み」のこと。
人に喜ばれたり感謝されたりする行いのこと。
世間によく知られるようになる徳行。

隠徳とは、
誰にも知られることなく、感謝されることもなく、
良い行いをするのが陰徳です。
人に知られないよう施す恩徳。

都合を手放そうとしない。

都合を手放そうとしても、都合が見えない。
都合が見えたとして、手放そうとしても、手放せない。

これは至極自然なことです。

例えば、
「お金が欲しいという都合を手放してください。」と言っても
「お金なんてなくても幸せだ」とか「お金だけが幸せじゃない」と別の考えで蓋をするのが関の山です。

蓋の下ではしっかり握り込んでいます。

手放そうとするのではなく、ただ、私を知っていく
自然と緩み、自然と広がり、
いつの間にか気にならない私になっていきます。

そして広がれば広がるほど、僅かな都合も見えてきます。
その僅かな都合も手放そうとするのではなく、
ただその都合を握る私を知っていく。

その向き合うことに卓越し、極めていくなら

降ろそうとすることなく、都合は降りています。
自由になろうとすることなく、自由になっています。
積もうとすることなく、徳を積んでいます。
愛そうとすることなく、愛しています。

その第一歩は、今の私と向き合うことです。
全てをあるようにする私と向き合っていきましょう。


「向き合う」というのは、
自身の思考や言動を見て、反省するのではありません。
思考や言動と向き合うと、あれこれと判断して、反省したり、
そうしている自分を責めたりしがちで苦しくなります。

思考や言動をあるようにする私と向き合っていきます。
そこには肯定も否定も判断もありません。

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