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”レッジョっぽさ”考。 〜artenarraという現象を考える〜

このレッジョっぽい、というワードを発することに少しのプレッシャーがあります。なぜなら、まだまだ周りにはレッジョ・エミリア現地に行ったことのある人が少ないため、僕がこのワードを使うと(例えばレッジョの写真を出すだけでも)それがレッジョのイメージになってしまう可能性があるからです。

でも、今日は世田谷で進めているartenarra projectがひと段落した契機に、あえてこの「レッジョっぽい」を、言語化することにトライしてみたいと思います。(まだまだ勉強中なので、かなり主観が入りますことご容赦ください)

artenarra projectはレッジョ・エミリア・アプローチの思想や哲学をベースとした読み語りイベント「レッジョ・ナラ」を日本式にオマージュして行っているプロジェクトです。

そもそもレッジョ・エミリア・アプローチとはなんなのかという部分。
幼児教育で〜、アートを主軸においた手法で〜、ドキュメンテーション(観察と記録)をやって〜、アトリエリスタやペタゴジスタがいて〜、アトリエという施設が併設されていて〜、地域性(レッジョ・エミリアという土地が持つ歴史や風土が人柄が強く影響している)が強い〜、といったことはすでによく知られた部分ではありますが、それだけじゃないと思うんですよね。

モンテッソーリ・メソッドやイエナプラン教育などに見られる、ある程度理論化されつつある、かなり明確に「こうすることがこの教育手法だ」と体系立てられたものとは、ちょっと異なると感じます。

これら2つと違う観点は、メソッドや教育というワードで表現はせず、レッジョの場合、”アプローチ”と表現しているところではないでしょうか。つまり、体系だった”仕組み”ではなくて(もちろんそれも大きい要因ですが)「関わり方」に主軸が置かれているのではないかと考えています。

アートを媒介として、子どもたちの主体性を引き出し、協働性を育くみ、その過程で適宜最適な深められるツールを選択して学びや気づきを連結・深化させていく。

ここからは個人的な拡大解釈になりますが、この「対象が持つ個性にあった関わり方」は、何も幼児教育だけに止まるものではなく、初等・中等・高等教育でも大事にすべき観点だと思います。

画一一斉授業が全てダメとは言いませんが、全てがそれをベースになっているのはどうなの?と常々思います。

さて、この話をしているといくらスペースがあっても足りないので、artenarraに話を戻します。artenarra projectの社会との接点の1つとして行った「artenarra世田谷」。この場で、何が起こっていたのか。そして、その何が「レッジョっぽい」のか。よく「読み聞かせのイベント」とごっちゃにされるので、読み聞かせとの差異から考えて見たいと思います。

「artenarra世田谷」に、アルテナラパフォーマーズとして関わってくれた”たなかれいさん”が、当日のことを素敵にまとめてくれました。
物語をつくった、夏の思い出。|びじゅつの先生 たなかれい|note

まず、何より大きいのが「語る」という他者へのアプローチ。
レッジョ・ナラの”ナラ”はnarrativeのnarra:語るの意味から来ています。物語を「語る」という字面だけで見ると、読み「聞かせ」と何が違うんだ?と思いますが、ただ「聞かせる」のではなく、より能動的な「語る」というアプローチがあります。この「語る」には、その語る物語が持つ背景、ストーリー性、メッセージを、語り手のパーソナリティに混ぜ合わせた上で、発するという行為が含まれます。それはつまり語り手の個性の上に成り立つもので、同じ物語でも語り手が異なれば、込められる熱量やメッセージ性も異なります。だから発せられる言葉や、それを取り巻く雰囲気に、個々のアイデンティティが上乗せされ、人間性を持つために、ただ「聞かせ」るのとは異なって聞き手の琴線に触れる、ある種の「重み」を持った「語り」になるのではないかと感じています。

続いて考えられるのは「空間」の使い方。
読み聞かせがその媒介となる「本」を起点として、世界観を語るのに対し、レッジョ・ナラやartenarraでは、語り手は、その物語を語る「場」の持つ性質、特性を最大限に活用して、物語の世界観を作ります。つまり、聞き手は体感としてその世界観の中にいるかのような感覚を持つことになります。前者が思考イメージとしてその世界観と接しているのに対し、後者は身体的体感として、その世界観を感じるわけです。五感(場合によっては第六感)を使って物語の世界と関わるため、よりダイレクトに感覚が刺激され、その物語への没入感を得ることになります(もちろんそこに誘う語り手の話術もあるのですが)。

3つ目は、聞き手との「関わり方」。
2つ目にあげた空間とも関連しますが、その場にいる聞き手も物語の世界を形作る大事な要素です。というか、その聞き手がいるからこそ世界が作られる、というスタンスです。一方的に語るのではなく、聞き手の反応を交えながら物語は展開していきます。インタラクティブな関わりがベースに敷かれています。舞台と観客席、という明確な区切りが作られていないため、時には予期せぬ聞き手からのアプローチもあったりしますが、それすら物語の一部だったかのように取り入れてお話が展開します。このように反応を肯定してもらえる素地があるので、子どもたちも積極的に物語や語り手に関わろうとしていくのだと思います。だからこそ聞き手と一体感のある「場」が作れるのだと思います。

これらがレッジョ・ナラで感じた特徴的な部分であり、artenarraでも感じることができたもの。「レッジョっぽい」と感じた要素です。

そしてここからは、artenarraの考えるnarrativeという行為に対する解釈。
どんな物語でも、そこに登場する主体は複数存在しています。そして、その主体からすると、同じ物語でも、立場が違えば見える景色、受け取り方が違います。語り手は、その複数が得る視点を理解した上で、あえてどの視点も押し付けずに、受け取り方、そこから感じるものは聞き手に委ねるというスタンスを大事にしたいと思います。

『あなたはこの物語から何を感じますか?』という問いを投げかけるような。それがartenarra aproachではないか、と考えています。

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