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【音楽と街】梅田の片隅、あるいは世界の真ん中で

2018年、5月。深夜。

僕はその日、行くあてのない浮浪者同然で、背中を丸めて梅田の薄汚い路地裏にしゃがみこんでいた。

建物と建物の間に挟まれた暗い路は、飲み屋のダクトから吐き出される油の臭気と熱気に満ちていて、僕の額に嫌な汗を浮かばせる。あちぃ、くせぇ。

目の前の通りを、茶髪にスーツ姿の男たちがゲラゲラと笑いながら通り過ぎていく。あれはホストか何かだろうか。
ああいう人たちって、どんな生活をしているんだろう。金と欲望の渦巻く夜の世界に生きて、きっと普通ではない感覚があるにちがいない。
彼らのような存在をアブノーマルなものとして否定したり排除しようとする人も、世の中にはいる。

でも確かなことは、彼らはスーツをびしっと着て働く、れっきとした社会人であるということだ。

大学卒業から1ヶ月、既卒、無職。
家なし、彼女なし、金なし。
よれよれのTシャツとくたくたのジーパン姿で路地裏にうずくまる僕なんて、社会にとってなんの価値もないだろう。

何やってんだ、僕は。
何やってんだ。


ここは大阪の中心地、梅田。
西日本最大と言われる繁華街。
18歳の時に、北海道の田舎から関西へ出てきて以来、何度も遊びに来た街だった。

東梅田だの西梅田だの、似たような名前の駅が点在し、地上では車道と歩道が入り組み、空中歩道も地下街も入り組んだ大都会。
この複雑な構造を掴むには時間がかかったが、5年も通えばだいぶ分かってきた。気がつけば、もう慣れたもんよ、とデカい面をするようになっていた。

そんな慣れ親しんだはずの梅田の夜の中で、どうして僕は行き場を失い、こんなところにいるのか。

話は数十分前に遡る。


その日『大東洋』というサウナ&スパ付きのカプセルホテルに泊まることにした僕は、サウナや食事を楽しんだあと、自分の部屋に入り、のんびりと過ごしていた。
ふと天井を見ると、小型のテレビが吊るされていて、寝転がりながら視聴できるようになっていた。何気なく電源を付けてみると、なんとエッチなビデオが無音で流れ始めた。

oh…。
ネットでいくらでも見れる時代だからこそ、こういうところで見るのも悪くないな…。
ふしだらで健全な男子の僕は、イヤホンを耳にはめ、いそいそとイヤホンジャックをテレビの横の穴に差し込んだ。
さあどれどれと思ってボリュームを上げてみたが、すごく小さい。遠くのほうで鳴っている感じ。
あれ、変だな、と思ってボリュームをさらに上げる。大きくはなったが、やっぱり遠くで鳴ってる感じで、聞きづらい。

はっと気付いて、イヤホンを耳から外す。
女性の喘ぎ声が大音量で流れていた。
しまった…!

イヤホンの場所が間違っていたか、壊れていたのだろう。音は普通にテレビのスピーカーから出ていた。遠くで鳴っているように聞こえたのは、イヤホンが耳栓になっていたからだった。

直後、ドンッと衝撃があった。
大東洋の宿泊部屋は、二段に積まれたカプセルルームが、ワンフロアにずらっと並べられたつくりになっている。宿泊者の誰か一人でも大音量でテレビを見ようものなら、他の宿泊者にかなりの迷惑になる。しかもそれがエッチなビデオなら尚更…。

誰かが怒って壁or床or天井ドンをしたのかも…。
大慌てでテレビを消し、心臓をバクバクさせながらフリーズしてしまう。部屋を突き止められて怒鳴り込んでくるかも…。

僕は財布とスマホとイヤホンとセブンスターの箱とライターを、ジーパンのポケットにぎゅうぎゅうに詰め込んで部屋を出た。とりあえず逃げよう。

そして、行き着く場所もなく、ふらふら歩き続け、僕はとうとう油臭い路地裏でしゃがみ込んでしまった。


これが路地裏までの経緯。
別に逃げなくてもよかっただろ。
何やってんだよ…。
後悔と情けなさで、項垂れる。
とりあえず煙草でも吸うか…。

だが、そもそもなぜ僕は無職で、家がなく、カプセルホテルなんかに泊まっているのか。

次は、話は大学時代まで遡る。


2013年4月。
北海道からはるばる関西の大学に入学した僕は、ひょんなことから演劇サークルに入部する。

サークルとは名ばかりで、その活動は実に本格的だった。週5日の稽古の他に、空きコマでの裏方作業や自主稽古。本番1週間くらい前からは授業もバイトも全部休んで、部員総出で仕込み作業(会場の舞台設営)を行う。役者は部内オーディションを行なって、先輩後輩関係なく実力で決まる。

公演期間がやってくる度に、上記のようなガチンコの活動が始まる。それが年5回もある。
強烈な日々だった。
これまでの10代、打ち込めるものを見つけられなかった僕にとって、初めての青春だった。

役者もやったし、裏方は舞台美術と大道具をやった。
演劇の公演をたくさん見に行ったし、鴻上尚史や平田オリザなどの本も読み漁った。授業をサボって部室に入り浸り、たまに授業に行けば台本を読んでばかりで、単位の取得率は散々だった。
バイトも演劇中心で考えるからシフトに入れないことが多く、店長や他の人たちに文句を言われては辞め、また次を探しては、同じことの繰り返し。
とにかく寝ても覚めても演劇演劇…の日々。

しかし、これだけ演劇に情熱を注いでいても、現実は厳しい。
こういう世界は、たかだか1、2年の活動で才能の有無が明らかになったりする。
同期の中には早い段階から才能が開花し、圧倒的なセンスと存在感でみるみるうちに周りと差をつけていくやつもいた。
残念ながら、僕はそっち側になれなかった。なれないどころか、いつまでも下手くそで、いつまでも失敗ばっかりだった。

どこかで詳しく書こうと思うが、僕の学生演劇時代は結構苦いものだった。役者としても裏方としてもパッとせず、また組織の中で動くということに関してとことん要領が悪く、何をしてもまるで上手くいかない。
初めは熱意バリバリの僕に先輩や同期からの期待があったが、次第に失われていってしまった。

どんどん自信をなくして、自分の才能を信じて煌めいていたはずの眼差しはいつしか澱み、自分に言い訳ばかりしながら活動を続けていた。

そんな演劇なんて何が面白くて続けてるんだか。そう思って辞めようと思う時期もあった。
でも辞めなかったのは、演劇を辞めたら唯一の居場所がなくなってしまうから。

そんなこんなで色々あったが、なんとか引退まで活動を続けた。それなりに楽しいこともあったし、やっぱり演劇が好きだったんだろう。
だけど、その頃の僕はもうすっかり疲れていた。

そして次は就活が始まる……。


演劇に没頭して学業を疎かにしていた僕は留年が決まっていて、同期やゼミの友達が全員卒業してしまった後の5年目から就活を始めた。

仲間もいない中、勉強もバイトも真剣に向き合ってこなかった上に、頑固で社会性に欠けていた僕にとって、就活は至難だった。

演劇しかやってこなかったこれまで。
やりたいことなんて特に思いつかないな…。
そう思って、まずは演劇関係の求人ばかり見ていた。
劇場スタッフ、イベント制作会社、大道具制作会社、芸能事務所…
どれもピンと来ない。それもそうだ。
第一、一口に演劇といっても何がしたいのか。

同期や後輩の中には、大学を中退し、役者を目指して東京へ行ったヤツらがいる。新卒で入った会社を辞めて服飾の専門学校へ入り直し、のちに舞台衣装の仕事に携わることにした者もいる。

そいつらは覚悟を決めて、いろんなものを捨てて演劇を選んでいる。
その覚悟は僕にはあるのか。…ない。
役者一本でやりたいわけじゃない。舞台美術とか大道具の専門の人になりたいわけでもない。
才能もないからどうせ無理だし。
そうやって才能ないことを言い訳に踏み出せない程度のものだし。

そうか…。
僕は「演劇そのもの」にとりあえず関わっていたいだけだったのか。
ただ、何かに打ち込んでいる自分が好きなだけだった。
ただ、青春がしたいだけだったんだ。

だから演劇関係の会社に入るのも、就職を捨てて役者の道を行くのも違う。
もう青春は終わったから。もう疲れたから。

じゃあ僕は何がしたいんだ…。
それが分からないまま、僕の大学生活最後の年は矢のように過ぎていった。

とりあえず、なんとなく興味のある求人に応募して面接に行く。それっぽい志望動機を言ってみるけど、本心じゃないから熱が入らない。当たり前のように不採用。だんだんお祈りメールにショックを受けることもなくなっていた。

何度か集団面接を受けた際、みんな揃いも揃って「御社の理念に魅力を感じ〜」とか「御社の事業を通して社会貢献ができれば〜」とか言っていて本気でびびった。
まじかよこいつら。気ぃ狂ってんのか。
でも同時に、僕もこうなれたらどんなに楽か…と思っていた。

そうして、ついに3月になった。
とりあえず1社、内定が決まった。
教育系の会社だった。別にやりたい仕事ではなかったが、そうも言ってられない。
僕は4月からここで働くだろう。

卒業前に友人と卒業旅行に行った。
青春18きっぷを使って、大阪からひたすら北上し、東北地方まで旅をした。

仙台のゲストハウスで、地元の人たちと交流する機会があった。「卒業旅行なんです」と言うと、「4月からは社会人だね」「どういう仕事するの?」と聞かれる。
その瞬間、僕は「内定、断ろう」と決めた。なぜかはわからない、けどなんとなくわかる。やっぱちげーんだよ。

旅から戻り、内定先に辞退を申し出た後、親にその旨を伝える。
母は辞退を撤回してそこに行きなさい、と言う。当然だ。
父は、一回帰って来なさい、と言った。
怒られるのかなと思った。しかしちょっと違った。

父ももちろん、僕の就活について思うことは山程あったみたいだが、父の中でひとつの考えが生まれていたらしかった。

「このまま既卒として就活を続けて、何か変わるのか。あんたの中で何かが変わらなければ、結局ダラダラ続けて同じことの繰り返しになるだけやと思う」

「そこでひとつ提案なんやけど、海外に一人旅にでも行ったらどう?こっち帰ってきて、バイトしてお金貯めて、インドにでも行くといい。何かが変わるかも」

え?
インド?

目から鱗だったが、確かに父は型にはまった考えをしない人だったから、こういうことも言いそうではあった。
聞くところによると、父は若い頃にインドを旅したことがあり、それからインドが好きになり、いつか子供たち(うちは四人兄妹)の内の誰かにインドに行ってもらいたかったらしい。

しかし子供たちは誰もインドに興味がなさそうで、諦めかけていたところ、ここにきて僕が就職でグダグダしていること、何やら青春18きっぷでひたすら北上という面白い旅に出かけたことを見て、この子なら!と思ったそう。

実はなんの因果か、僕は大学生活の終盤にインドとの縁を感じていたのだった。
最後のタームで、なんでもいいからあと1単位分を埋めなければいけなかったので、どうせなら他学部の面白そうま授業を取ろうと思い、文学部の「遠藤周作作品研究」という講義を受けることにした。

読書が好きで、遠藤周作の作品も何冊か読んで好きだったので受けてみたのだが、この授業で僕は「深い河」という作品に出会う。
これはインドが舞台の話で、「深い河」とはガンジス川のことだった。
この作品を読んで、インドってどんな国なのかな…と興味を持ったのであった。

さらには、別の授業で、映画「スラムドッグ・ミリオネア」を見せられてもいた。これもインドが舞台で、その鮮烈なストーリーとインド社会の描写に、ますます興味が深まっていた。

演劇漬けの大学生活から演劇が失われ、ぽっかり空いた穴に、最後の最後に湧いてきた「インド」という強烈な興味。そして、そのタイミングで父からのインド旅の勧め。これは…。

僕は父に、インドへ行く、と返事をした。
きっと、ガンジスからの導きだろうと思った。

そうして、家を引き払って北海道へ帰ることに。
しかし、飛行機代が出せないほど金がない。
それくらい親に工面してもらえばと思うだろうが、この時の僕はもうすでに旅人気分だった。
友人宅に泊めさせてもらいながら、日雇いのバイトで飛行機代を稼ぐことにしたのだった。

しかし、何日目かに友人の事情により一旦家を出なければいけなくなり、梅田の大東洋に泊まり、そしてエッチなテレビを見るに至る…ということだったのだ…。


街はいつまでもギラギラと明るく、行き交う人々は酒に酔い、女に酔い、男に酔い、金に酔い、時代に酔っていた。
酔っ払いまみれの街の片隅で、ホテルと社会に弾き出された僕がしゃがんでいる。
いや、どっちも自ら飛び出してきたのか。
そう思うとなんだか笑ってしまう。
僕は何やってんだ。

ポケットからセブンスターを取り出して、火をつける。イヤホンをiPhoneに差し込んで、曲を再生する。
中村一義の『セブンスター』が流れてくる。
セブンスター吸いながらセブンスター聞く。
そういうダサいことをしたくなる時が、たまにある。

クソにクソを塗るような、
笑い飛ばせないことばっかな。

中村一義『セブンスター』

一義が歌う。まったく、そうだよなぁ。
明るい夜空へ昇っていく煙を見上げて、もう一口吸う。
あの演劇の日々、就活の日々、今の自分。
ぜんぶ、いつか笑い飛ばせる日が来るかな。

旅に出たらほんとに変われんのかな。
自分探しとか言うけど、インドに自分はいないよな?だって自分はいまここにいるんだから。
でも、どこへだって行けると思う。この狭い路地裏から出発して、どこまでも行ける。

僕はいま、世界の真ん中にいる。
生ぬるい初夏の夜風が、煙草の煙を巻いて吹き抜けていった。


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