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【音楽と街】八月の背

その日は淀川の花火大会があったらしい。

八月某日、夜。
阪急武庫之荘駅の構内で、僕は花火大会へ向かう人々の混雑に巻き込まれていた。

人の群れはひとつの巨大な生物のようで、不気味な気を放ちながら、ゆっくりと進んでいた。花火大会と無縁の僕はいつまでも前に進めないのに苛立ち、生物の腹を抉るように人混みを掻き分けて、なんとかホームに辿り着いた。
そこで目にしたのは、さらなる生物たちがうねりながら電車を待っている様相だった。
僕は思わず「ひぃっ」と声を上げた。

やってきた電車はすでに満員で、そこに皆が一斉に乗り込んでいく。車内は地獄絵図だった。
最後の方になんとか乗り込んだ僕は、ドアの窓ガラスに頬をぎゅうっと押しつけられる体勢のまま、動けずにただ外を眺めていた。息が苦しくて、ただただ苛立っていた。

車窓を流れる闇は、点々とした明かりが浮かぶばかりで、何も面白くない。暑いし、湿気もうざいし、人もうるさいし、何より体がすごい圧力でドアに押し付けられるのがめちゃくちゃ不快だし、ふつーにしんどい。せめて、窓の外に何か面白い景色でも見せてくれよ。

そんなことを思っていた矢先、視界が途端に明るくなった。
田園に、無数のまばゆい星の光が映っていたのだ。

いや…。そんなはずはない。
夜空の星にしてはあまりに光りすぎている。
そもそも、こんな街中で星空が見える訳がない。

その正体は大きなマンションの灯りだった。
各廊下に等間隔に設置された照明の光が外に漏れていて、それが暗闇の田園に眩く反射し、星空のような幻想的な光景を作り出していた。

…ヘンな景色だけど、綺麗だな。
一変した車窓の風景を眺めて、僕はそう思った。

その瞬間、僕は今日一日のことを思い出した。
彼と過ごした暑い夏の日のことを。

僕らは一丁前に迷い、悩み、でもどこか楽観的で、世間知らずで、ガキだった。

僕は駅前で別れた後、自転車でフラフラと夜の街へ消えていく彼の背中を思い浮かべ、そして呼びかけた。

おい、お前はどこへ行っちまうんだろうな。
僕は、どこへ向かってるんだろうな。

人混みを乗せた電車は滔々と進み続ける。
蒸し暑い八月の夜の中を、這うように。



その日の昼下がり、彼から一通のLINEが届いた。

「今日あそぼ」とだけ書かれたメッセージを見て、ベッドに転がっていた僕は、少し考えたのちにだらだらと起き上がった。
中途半端な時間ではあるけど、大学は夏休みだし、今日はバイトもないし、どうせ暇だった僕は彼の誘いに乗ることにした。生ぬるい水道水で顔を洗い、適当に着替えて出掛けていく。

大学5年目の夏のことだった。


待ち合わせは武庫之荘駅前。
僕らはいつも、集合の場所だけ決めて、時間を決めない。
家を出る時に「今から出るわ」と告げ、到着の目安時間が分かり次第、再度LINEを入れる。
集合場所でどちらかが長く待つこともあるが、お互い他に友達もいないような一人好きの僕らは、どんな場所でも何時間でも一人で時間を潰せた。

だからこの日も、武庫之荘駅のある尼崎市に住んでいる彼よりも、ずっと遠い街に住んでいる僕の方が早く到着したからって、何も文句は言わない。

駅前に並ぶ店を一通り冷やかした後、改札前の階段に腰をかけ、とっくに飲み干してしまった三ツ矢サイダーのペットボトルを弄んでいる頃、彼はやってきた。
ボロい自転車をガシャガシャ言わせ、汗びっしょりの顔面で、すごい勢いでこちらに向かってくる。

到着し、自転車から降りるなり「あっついわほんまにもう」と悪態をつく。
僕が立ち上がるのを見ると、何も言わずに踵を返して、自転車を押して進み始めた。
その後ろを着いていくと、振り向いて「あっちに美味しいコロッケ屋さんがあるから、それ食べに行こ」と言った。
僕は「おう」と返事をして、横に並んで歩いた。
僕らはだいたいいつもこんな感じ。


彼は変わった人だった。
一人で街を探索するのが好きで、あらゆるお店や場所をリサーチしたり、時には繁華街の裏通りや風俗街、ホームレスの溜まる公園、謎の店がひしめき合う雑居ビルなどのディープなスポットを見つけてはうろつき回り、そこを行き交う人々の様子を眺めていた。人々のリアルな生活の営みを見るのが好きなのだとか。
そして時々、こうして僕を誘って連れていってくれたのだ。

僕は彼の目を通して見る世界に興味があった。
彼はものすごく強烈な個性と独特の感性を持っていて、僕は彼にはどんなふうに世界が見えているのか、気になって仕方がなかった。
だから、いつもこうして彼にいろんな場所に連れていってもらい、その世界をほんの一部でも知ろうとした。


駅から南へと向かい、JR立花駅の方へと向かう。
3、40分は歩いたと思う。なぜ立花駅集合にしなかったのか…。
二人とも歩くのが好きではあるが、この炎天下はさすがにきついものがあった。

汗だくになりながらたどり着いたのは、駅前から伸びる商店街の入り口だった。
ここのどこかの精肉店で、美味いコロッケが食べられるらしかった。

彼の古びた自転車が、商店街にキィキィいう音を響かせる。
「そのチャリ何年くらい乗ってるん」と僕。
「これ、姉ちゃんにもらってん」と彼。
絶妙に噛み合っていない会話。相変わらず変なやつ。

「シャッター街やな…」
商店街は多くの店がシャッターを閉めており、ずいぶんと静かだった。

「尼崎はだいぶ変わった。北側の方がだいぶ綺麗になって、みんなそっちに流れてしまってるんや。だから、この南のらへんは最近急激に寂れてきてるんやで」

突然、学者のような見解を流暢に話し始める。
聞くところによると、なにやら「銭湯文化から見る尼崎市の歴史」とかなんとかを卒論で執筆している最中だとかで、それで尼崎の事情に詳しいらしい。

それにしても、彼が大の銭湯好きだったことは知っていたが、まさか卒論で書く程とは。しかも最近、銭湯でバイトし始めたというマニアっぷり。


本当に不思議で、個性的だった。

銭湯マニアで街ブラ好きの他に、アニメ好きでもあり、特撮オタクでもあり、最新のガジェットにも詳しく、ゲーマーでもあった。
その一方で、レトロ好きでもあり、古い雑誌を集めたり、大阪の昔の生活を体感できる「大阪くらしの今昔館」に足繁く通ったりしている。

ある時は、突然昭和のドラマ『探偵物語』にハマり出し、あちこちの古着屋でハットやスーツを買い揃えて、松田優作演じる工藤俊作のコスプレをしていたこともある。
彼の世界は無限だった。

いろんなことに興味があるから、きっとあちこちの街を歩くのも好きなんだろうな。
今、彼の目には、この裏寂しい商店街はどう映っているんだろう。


商店街を半分ほど過ぎた時、彼が不意に
「今日、淀川の花火大会らしいな」と言った。
「ふうん」と返事をしたあと、僕は窺うように
「え、行く?」と聞いた。
「行かん。人混み嫌いやもん」と彼。

僕は嬉しくなって「そうだよなぁ!」と思わず大きな声を出した。
僕も人混みが嫌いだったし、そういうリア充なイベントがそもそも嫌いだった。

彼女もいないし友達も少ないけど、
僕は彼と寂れた商店街をぶらついてるだけで楽しかった。


精肉店が見えてくると、美味そうな匂いが漂ってくる。あそこでコロッケを揚げているのか。
そういえば今日はまだ何も食べていない。ずいぶん腹が減った。今ならコロッケ2、3個いけちゃうなぁ。

そんなことを考えている僕と裏腹に、彼は
「まだ腹減ってないし、先に銭湯に行こう」
と言い出した。

僕は先に食べることを訴えようとしたが、彼が突然、
「それに、あっちぃしよぉ!」
と叫び出したのを見て、思わず笑ってしまった。
確かに、彼の顔面は汗でびしゃびしゃで、不快指数の高さが伺えた。
ということで、商店街のすぐ近くの銭湯に行き、ひと汗流すことにした。


銭湯はこぢんまりとしていたが、人も少なく、快適だった。すりガラスの窓の向こうから傾き始めた陽が差し込んできて、場内を夕暮れ色に染める。
どこかノスタルジックで、心地よい時間が流れていた。

一番大きな風呂に二人で並んで浸かり、ふうっと息を吐く。西日がきらきらと揺れる水面を手掻いて遊びながら、こんな時間がずっと続けばいいのにな、と思った。直後、不意に憂鬱な気持ちが僕を襲った。

「…就活、どう?」彼に聞く僕。
「うーん、相変わらず駄目やな」と彼。
「そっか」
「うん。そっちは?」
「僕も……全然」

あまりにもまったりした時間が、かえって今僕の中で最もセンシティブな話題を呼び起こしてしまったようだった。


大学5回生、夏。
僕の就職活動は一向に進んでいなかった。

所属していた演劇サークルの活動にのめり込み、学業を疎かにしていた僕は、単位が足りず留年した。

それほどまでに演劇が好きで、熱意を持って取り組んでいたのだが、現実は厳しかった。
学生演劇には、どの代にも圧倒的なセンスや才能を持った者が一定数いるものなのだが、その中に僕はいなかった。どれだけ一生懸命やっても、そいつらとの埋められない差に苦しんだ。

また、組織の一員として動くことに不器用で、何をしても上手くいかないことも多かった。サークル全体に関わる大きなミスをして、OBから怒られたこともあった。
嫉妬や劣等感に苛まれ、失敗続きの日々が続き、僕はいつしか疲弊していた。

就活をせずに演劇の道に行こうと思っていた時期もあったが、引退を迎える頃にはそんな気持ちも消え去っていた。

サークルは引退まで続けたが、これ以上やる気にはなれなかった。たぶん僕は、演劇の道に進みたい訳じゃなくて、ただ青春したいだけだったんだろうな。
でも、もうそれすら疲れてしまった。

それで就活をすることにしたのだが、いざ始まってみると、全く身が入らなかった。
演劇しかやってこなかった僕は、他にやりたいことが全然分からなかったのだ。

なんとなく興味持った会社にエントリーしては、大した準備もせずに面接に行き、薄っぺらいことばっかり喋っては不採用。そんな日々が続いていた。


彼もそうだった。

実は彼は、一回生の頃に僕と同じ演劇サークルに所属していた。しかし、部の空気感に馴染めず、半年あまりで退部してしまった。
彼は僕以上に団体行動が苦手だった上に、学生演劇特有の「青春感」が耐え難く、あっという間にやめていった。まあ無理もない。
ただ、サークルをやめた後も、僕とだけは関係を続けていてくれたのは、自分と同じような匂いがしたからなのだろうか。少なくとも、僕はそうだった。

「組織のために一丸となって頑張ろう」
彼はそういうのが極端に嫌いで、苦手だった。

だから企業で働くというイメージが全く湧かず、就活にも全く身が入っていなかった。
その頃の彼の口癖は「働きたくない」「遊んで暮らしたい」だった。


「でも、そろそろ真面目にやらんとヤバいよな」
そう呟くと、
「でも働きたくないねんなぁ」
と彼は呻いた。

「そういや、去年海外行ってたやん。何か海外に関わる仕事とかは興味ないん?」
僕が尋ねると、彼は首を捻った。

彼も僕と同様に留年組だったが、彼の場合は昨年1年間休学して海外に行っており、それで卒業が1年遅れたのだった。彼曰く「君と一緒にせんとって」ということだった。

「…ないかなぁ」と彼。
「そっか」
「僕が休学して海外をフラフラしてたのは、ただ就活したくなかったからやねん。ちょっとでも先延ばしにしたかっただけで、別に何かを勉強しに行った訳ではないねん」
そう言うと彼は、はあ、と溜息をついて続けた。

「僕んとこ、お父さんが銀行員で、お堅いんよ。昔っから、メガバンクに行きなさいってずっと言われてて、ほんまに嫌やねん。姉ちゃんは公務員で、もう結婚して子供もおるから、いっつも引き合いに出されて『お前もそういう人生を歩みなさい』とか言うねんで。それが幸せの条件やねんて。僕はそうは思わん。銀行なんて絶対嫌や。結婚もしたくない。彼女もいらん。一生一人で遊んで暮らすのが幸せや」

意外だった。
強烈な個性を持った彼の親御さんは一体どんな人なのかと思ったが、まさかそういう感じだったとは。
思想は自由だが、それにしてもこの多様性の時代の昨今にそんな価値観を子供に押し付けるなんて…。言い方は悪いが、ちょっと古臭い。

もしかしたら、彼の独特の感覚や考え方、趣味嗜好は、親の圧力への反発によって形成されたものなのかもしれない。

「そうか、大変やな君も」
「そや。大変やねんで僕は」

僕がしばらく黙っていると、
「演劇はもうやらんの?」と彼が聞いてきた。
「うん…。もういいかな…」
そう返すと、ふうんと返事をした後、彼は少し考えんでから、
「でも君は、演劇以外にもまた何か好きなこと見つけてやってそうやな」と言った。

「えっなんで」
僕が驚いて尋ねると、
「知らん」
と返した。

「うーん。どうやろなぁ…」
と首を捻る僕に、
「君も僕も、好きなこと以外やりたくない人間やからな。きっとそうや」
と彼は言う。

「なあ、それが見つかったところで、就活はどうなる?好きなことやるったって、結局、仕事はしないといけないし、見つかったとしてもその好きなことを仕事にできるかもわからんし…」
僕がそう言うと、

「まぁ、なるようになるやろ」
そう言って彼は湯船から上がり、サウナへと向かっていった。


サウナで早めにへばった後、彼を置いて先に上がった僕は、脱衣所の扇風機に当たって涼んでいた。
壁に貼られた銭湯のポスターをぼうっとした頭で眺めながら、彼の言葉を反芻した。

「まぁ、なるようになるやろ」

なるようになるのか。
なるようになるのか…?
なあ、なるようになるのかい、僕たちは。

そりゃ、できることなら好きなこと以外はやりたくないけど、そんなことは子供の言うことだって僕もわかってる。
みんな、好きでもないことを仕事にして、頑張って働いて、生活を保って生きている。
その中で、何に、どうやって価値を見出すかが大事って、先に卒業して働いてる友達が言っていた。
演劇を仕事にしてる知り合いもいるけど、「好きだけじゃできない」ってさ。

そんなみんなからすれば、僕らは世間知らずのガキンチョで、どうしようもなく見えるだろう。

でもさぁ、やっぱやりたくないことやるのは、
僕も彼も、結構きついんだよね。

みんなはなんだかんだ言って、上手くできちゃうじゃん。上手く立ち回ったり、仕事を卒なくこなしたり、色々割り切ることができたり。
上手くやっていける能力があるじゃん。

僕らは二人とも、「みんなと同じ」が本当に難しい。
コミュニケーションが下手で、組織の中の立ち回りが苦手で、物覚えが悪くて、いろいろ割り切れずに生きている。生きづらいんだよ。
わかんないと思うけど。

せめて、やりたいことやりたい、くらい言わせてほしいよ。

でも彼は「なるようになる」と言った。
なんの根拠があるのか知らないけど、
その言葉、信じてみちゃダメかなぁ。


サウナで十分に汗を流して満足したらしい彼は、なぜか誇らしげな顔で風呂から上がってきた。
よかったね、さっぱりできて。

銭湯を後にした僕らは、いよいよコロッケを買いに向かった。
二人とも、シンプルな牛肉コロッケとメンチカツをひとつずつ頼んだ。気の良さそうな精肉屋のおじさんがおすすめしてくれたからだ。
その上、「ちょっと大きいのにしといたよ」とサービスしてくれた。
こんな寂しい商店街の片隅の小さな肉屋で、おじさんはなんだか楽しそうに働いている。いいな。

コロッケを片手に、近くの公園へ向かった。
公園はだだっ広く、手前側に遊具が少しばかりあるだけで、あとはただグラウンドのような砂地が広がっていた。

公園のベンチに並んで腰掛け、僕らはコロッケを食べた。思えば、今日の目的はこれだった。
80円のコロッケのために、僕らは汗だくになってこの商店街へやってきた。淀川で花火大会があるという日に。

衣をサクサク言わせながら、コロッケを無心で貪る。肉汁がじゅわ〜っと広がって美味しい。
メンチカツもあっという間に平らげてしまった。これでお腹も満足だ。

クソ暑い日に二人で延々と歩き、銭湯に入って、悩みを語り合って、夕方の公園で並んでコロッケを食う。
こんな幸せ、他にあるかよ、とふと僕は思う。

気が付くと、空に夕焼けが広がっていた。
燃えるように真っ赤な夕焼けだった。

「おお…」と感動する僕の横で
「働きたくないなぁ」と彼はいつもの台詞を言う。
「でも、なるようになるんやろ?」
そう言うと、彼は「さあねぇ」と首を傾げた。

「なんでやねん、自分が言ったんやろ!」
「そうやっけ」
「そうや!ほら、見ろ、この夕焼け。こんなの見てたら、僕らの悩みもちっぽけに見えてくるやろ」
「なんか演劇やってる人って、そういうこと言うイタさあるよなぁ」
「なんやと!」

僕は馬鹿にされた仕返しに、彼にヘッドロックをかける真似をした。彼は「ぐええ」と悶えた後に僕の腕をすり抜けると、立ち上がって走り始めた。

「…え?おい!」
突然のことに呆気に取られているうちに、彼はどんどんと遠ざかっていく。公園の中を突っ走って行くその背を見て、僕も立ち上がり、そして駆け出した。

反対側の端で息を切らして突っ立っている彼に追いつくと、僕はその背にタックルをかました。
「ぎゃあっ」
叫びながら倒れる彼にもつれて、僕も地面に倒れ込む。二人でゼエゼエ言いながら、ごろんと仰向けになる。地面に肘を擦りむいたようで、少し痛い。

「なんやねん、急に」
「いや、こっちの台詞や。いきなり走り出して、意味わからんやろ」

「へえっはあっ」と変な呼吸をしながら、彼は無言だった。彼はじっと空を見つめていた。
僕も、空を見つめた。

見上げた空は一面夕焼けが広がり、視界の全てが赤く染まっていた。吸い込まれそうな、怖いほどの赤だった。
もうじき黄昏が迫り、暗くなれば、この空のどこかで花火が上がるだろう。

その時が来る前に、僕はこの空を目に焼き付けておこうと思った。
彼と過ごした今日の空の色を。

しばらくすると彼は立ち上がり、僕を見下ろして
「帰ろか」と言った。
僕は「おう」と言って立ち上がり、もうすでに歩き出している彼の背を追った。
八月の暑い日のことだった。



あれから、何年経っただろう。
僕と彼は未だに、暇があれば街をぶらぶらしては銭湯に行き、互いの近況や好きなことについて話し合ったりする。

結局あの後、就職したり、フリーターしたり、転職したり、ニートしたり…二人ともいろいろあったけど、今もいろいろある。
今もずっと人生に迷いながら生きている。
生きるのに不器用なのは変わらない。

でも、それぞれ好きなことややりたいことが見つかって、楽しく生きている。
あれだけ苦悩し、もういいと思っていた演劇も、実は先輩の誘いで社会人劇団に入って細々と続けている。なんだかんだ好きなんだろうな。

人生はなるようになる。本当にその通りだった。

僕は今日も音楽を聞いて、自分で焙煎した珈琲を飲みながら、文章を書いている。

最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな

フジファブリック『若者のすべて』

最後どころか、最初の花火すら見ずに帰ったあの日のことを、僕は今でもよく思い出す。
一丁前に迷い、悩み、でもどこか楽観的で、世間知らずで、ガキだったあの頃の、あの日のことを。


すりむいたまま
僕はそっと歩き出して

フジファブリック『若者のすべて』

二人で公園を走り抜けた後、倒れ込んだ地面に肘をすりむいた。少し血が出た。
あの傷を抱えたまま、僕は今日まで地続きの日々を歩いてきたと思う。そして、これからも。

彼もきっとそうだろう。
だけど、彼はそういうクサいことが嫌いだから、鼻で笑うだろう。

だから僕は、自分の中にそっとしまったまま、歩き続けていくことにしている。


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