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なぜ「経済を編み直す」活動を始めたのか

置き去りにされた小説の続きを生きる。

私は、昔から何気ない日常の美しさや幸せを大事にしたい人間でした。
今そういえば中学生のころ、小説を書いていたなと思い出しました。
話は、祖父母がなくなって空っぽになった館があり、それを売らずに思い出と共に掃除をしたり整理をして暮らす女性の話でした。
結局途中で終わってしまったのだけど、物語の最後のシーンだけ、書いていないのにイメージだけ頭に残っているのです。

そのシーンは主人公の女性が4人家族の親子と階段ですれ違うのですが、女の子の子どもが階段を駆け上がり笑顔で振り返ります。他の家族は笑いながら早いなぁもう、と言ってしばらくして追いつき、4人は通り過ぎていくというシーンでした。道端にはたんぽぽが咲いていて、木々から光が漏れていて、主人公がまた歩き出す。

私は実際にその同じ光景を見たわけではないのですが、こんな日常に溢れているなんでもないシーンをなぜラストにしたかったのか。

これが幸せなんだ、と幼心に私は思いたかったんだと思います。

似たことをコロナの時、モスクワから一時帰国したときに体感した記憶があります。
外に出るな、と言われていた中で実家の周辺を散歩していた時でした。

川がさらさら流れていて、水鳥がつがいで泳いでいる。道端には変哲ない花がいつものように咲いている。

騒いでいるのは人間だけで、自然は、地球は当たり前に回っているんだということを思ったのです。

日常の中の幸せは、それが失われたときにしか感じられないものなのでしょうか。
なぜ私たちはその幸せだけで満足できないのでしょうか。

途中で終わってしまった小説。きっと読み物としてなんのスペクタルもない面白くないものになってしまうかもと思って、いつしか忘れてしまった小説。

私はこの小説の続きを、もしかしたら生きているのかもしれないと思いました。

私は何の取り柄もない、普通の人間です。
でも少なくとも、人類みんなが自分も周りもみんなが幸せになればいいな、という願いが自分の中にあるということに気づいている人間です。

でもそれは決して現状に甘んじて生きることではありません。
その奥に、「ここではないどこかへ」の憧れがあり、それが自分を新しい世界にドライブさせていました。

国を背負って夜も寝ずに働いてる武勇伝を語る政治家。
大きな会社を成長させていくため世界中を飛び回り、事業の根幹を支える経営者。
子育てをしながらもコツコツと努力を重ね、管理職に昇進し注目を浴びる女性。

キラキラしたキャリアは目を引き、そのストーリーに触れれば自分もそうなれるかのように読むけれど、そこにどうしても答えがあるように思えなかった。

認知症のおばあちゃんが自分が作ったものを褒められて嬉しそうに眺めている、
子どもが拙い字で「ままだいすき」と書いたカードを渡してくれる、
ずっと会えなかった友人と再会してたわいのない話で笑い合う。

個人、一人が頑張って社会をつくっているというのは幻想だと思います。
人と人が関わり合って支え合って社会が生まれ維持されていくものです。

そしてこのシンプルな真実を見えにくくしているのが、経済観念です。
損得、コストパフォーマンス、収支管理、利回り、負債。

これから、物々交換をしていた原始時代に戻るというわけではなく、培った技術やシステム、スキルを使って幸せのイノベーションをみんなで起こしていく、ということだと思っています。

まずは目の前の人を信じてみよう。何が得られるかを手放してみよう。
余裕がなければ、余裕がない自分をオープンにしよう。
そして余裕がある人から愛を受け取ってみよう。

受け取って生じるのは負債ではなく感謝です。
感謝は感じているだけでは伝わりません。どんどん表現して社会全体を包もう。それが経済活動なんだと思います。

「経済を編み直す活動」は値段のない活動です。
共感や愛の循環で生きられる未来へ。
一歩でも進んで行けたらと思っています。

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