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父が死んだ日


社会人一年目。
一人暮らしは慣れていたけれど、収入が心許なかった。風呂なしトイレ共同アパートに住んでいた。
大学附属学校に週に三回早朝から深夜まで勤務して、月に七万円ほどにしかならなかった。携帯代や税金なんてとてもじゃないが払えない。

繋ぎの仕事として、まず恵比寿のウェスティンホテルの宴会場の派遣に登録した。それまでもホテルオークラでバイトしていたので、まあまあ仕事はやれていた。だが、ある日シフト希望を出すマネージャーの電話番号を誤って消してしまって、わざわざ会社に電話するのが面倒になって、フェードアウトしてしまった。あ、わたし、かなり適当な奴なんですすみません。

次に、明治乳業の営業バイトに応募した。時間帯が講師と相性が良かったからだ。昼過ぎ、牛乳販路開拓団団長の車に乗り、学芸大学駅近くの住宅街でぽっと降ろされて、一軒一軒牛乳の営業をかけていく。終わったところの地図をペンで塗りつぶす。契約成立なら赤、だめなら青、ヤバい住人(ヤクザ、ネチネチ、セクハラ等)はメモしておく、など決められていた。営業は初めてだった。真面目に上司に言われたことを遂行し、良い営業トークの流れをバイト仲間と話し合ったりもした。それにしてもあまりにも契約が取れなくて、成績が最下位だった。
お客さんから契約が一件も取れないことが悲しくて、泣いた。自分は容姿、礼儀、清潔感、しゃべり、情報の有益度、おもしろみ、癒しなどで人によい印象を持たれることは皆無の、でくの坊ということをいやというほど思い知った。
思い詰めて「団長、私の事、なんで採用したんですか?良いとこ無しですよ」と尋ねると「一見、老若男女に嫌われそうになかったから」と鼻をほじりながら答えが返ってきた。が、人畜無害な顔だけではなんの戦力にもならなかった。ちなみに他のバイトは18~25歳位で、ジャニーズにギリ入れそうな可愛い男子、筋肉ムキムキの空手女子、見かけふんわりした頭脳派主婦等、強者ぞろいだった。みんなバンバン契約を取っていた。私のアタマが足りてない説がいちばんありそうで悲しかった。

牛乳開拓団は短期だったので六月にやめた。次はせめて知ってる業界で働きたい、と、絵画教室の求人を探した。家から歩いていける場所にアトリエがあり、そこで講師をするには経験が足りていなかったので、モデルをすることにした。
面接に来てくださいと電話が来て、アトリエに参った。黒地に大きな水色ドットのキャミソールワンピースを着ていた。体のラインも見えるし、絵にしたときに一番映えるかなーと、数少ない手持ちの服から選んだものだった。

優しそうな事務の女の子は、一眼レフでパシャパシャと私の全身像を撮った。「かわいい柄の服ですね!でも今度来る時は明るい色の服も持ってきてください(^^)」との助言を受け、「わっかりました★」とハキハキ答えて好感度を少しでもあげようと明るくふるまった。
「では、来月辺りからモデルのお仕事入れさせてもらいますね」等とのたまうので、
「なにいっとんじゃこちとら銭がなくて家賃滞納前夜なんじゃ来月と言わず今すぐシフトを入れろさもなくば呪う」等と軽くヤバイセリフが脳裏に浮かびつつ「わっかりましたぁ〜♥」とにこやかに帰宅した。

呪いが功を奏して、4日後に油絵クラスのモデルをしてくれと電話が掛かってきて、すっ飛んでいった。身なりの良い紳士淑女の日曜画家たちに囲まれ、アトリエの真ん中の席へ向かう。経験が浅く、どのようなポーズにしたらいいか分からず困っていたら、講師に、(ビーチチェアに上体を起こして寝そべる)グランド・オダリスク·ポーズを指定された。言われるがままだが、さっそく脚が攣りそうなんじゃい(#^ω^)ポーズし始めて思い出したが、私はじっと停まっていることがなによりも苦手だった。卒業式などはあまりの苦痛に1人だけワナプルして震度2くらいで揺れているタイプだった。

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