【怪談】中年男とランニング  (前編)

40代会社員Oさんの話。

Oさんは会社の健康診断に引っかかり、高血圧と肥満、メタボリックシンドロームだと診断された。
早急に生活改善に取り組まないと、病気になったり卒中を起こす日も遠くないと医師に告げられた。
糖尿病になってもおかしくないとも言われた。

Oさんは巨漢で、若い頃はラグビーをやっていた。
社会人になってからはラグビーから引退したが、体育会系仕込みの暴飲暴食は引退できなかった。

Oさんも働き盛りの会社員だ。
妻も子供もいる。
子どもは将来大学に行きたいと言っている。
生活習慣病で倒れるわけにはいかない。

Oさんは一念発起してジャージを新調すると、ランニングを始めたのだった。
ブランド物の割と良いジャージだったが、突き出す腹がなんとも情けない。
シルエットを見ると、せっかくの格好いいスポーツブランドが台無しだった。

Oさんは林道を走った。
タバコに汚染された肺では、林の清涼な空気の味すら分からない。
ゆさゆさと情けなく腹を揺すりながら、歩いているのか走っているのか分からないスピードで、ひたすら進んだ。
1kmも進めなかった。
ぜいぜいとタールまみれの気管支が音を立て、太い割に脆弱な膝が悲鳴を上げる。
自分の身体に、豚のバラ身を巻きつけているような気分だ。
だらしなくついた脂肪が重すぎる。

Oさんは走るのをやめて、歩き始めた。
もうだめだ。足が痛くて動けない……気がする……そう思った。
そのうち、カネを貯めて脂肪吸引やエステでも行くか……

「横、しつれいします」
朗らかな女性の声がして、引きずるように歩くOさんを女性ランナーが追い抜いた。
ふわりとシャンプーのような、良い香りが鼻をくすぐった。

Oさんは、つい目で追ってしまう。
20代後半から30代前半の女性だった。
立ち振る舞いはランナー然としていながら、肉付きはよく、なんだか艶っぽかった。
にわかランナー中年オヤジのOさんは、速やかに女性を眺める。もはやランニングに対する情熱は消え去った。
女性は白いタンクトップに、黒いスパッツを履いて、丈の短い白のランニングパンツをはいている。
息を弾ませ、リズミカルに駆けている。
ショートパンツ越しに、弾むようなお尻の形が見える。
Oさんは目を血走らせて視線を向けた。
足が痛くて走れないと判断したことすら忘れ、よたよた駆け出す。
無様な中年男性の常として、よせばいいのに涼しい顔をして話しかけた。
「いい天気ですね……林も……すがすがしい……」慎重に切って話さないと、ぜえぜえ言うのがばれてしまう。
「ええ……ランニング日和ですね……」女性は邪険にせず、息を弾ませながらOさんに返答した。
Oさんはうれしくなった。そして、次の言葉で有頂天になった。
「ご一緒します?」女性はにこりと笑いながら、汗ばんだ美しい笑顔を向けた。
「ついていければいいのですが……なにぶん久しぶりのランニングで」Oさんは気の利いた風な口を叩くと、女性の後に続いた。

「ランニングは最悪だと思ったが、いいこともあるもんだな」Oさんはほくそ笑む。

女性は早いというわけではないが、軽快に林を進んでいく。
Oさんは、中年男の気味悪い笑みを浮かべつつ、女性の後ろ姿を眺めてついていく。
何とかついていけるペースだった。
女性がいなければ早々に脱落退散しただろうが、助平心で元気を出したOさんは林をどんどん進んでいく。

どのくらい走ったろう。
割と長い距離を走破したかもしれない。

ふと、Oさんは周囲の薄暗い林を見て思った。
「こんなに深い林じゃなかったと思うんだが……」

周囲には、自分と女性の他、誰一人見当たらなかった。

【後編につづく】

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