【怪談】バランス釜

その昔、平成半ばまでは見かけた「バランス釜」という風呂があった。


ガスの湯沸かし器が、狭いホーローの風呂釜に隣接しているものだった。

ガチャガチャとカセットコンロのようにツマミを回し、ガスを点火する。

湯沸かし器の小窓から、青色の炎が見える。


浴槽内の水が、湯沸かし器の中を通りお湯となって浴槽に戻り、加熱されていく……そんな仕組みだった。



私が子供の頃住んでいた公営住宅にもあった。聞いた話では、公務員宿舎などは未だに残っているところもあるらしい。


本日はそんな「バランス釜」にまつわる怪談。



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乙男さんは、子供の頃市営住宅に住んでいた。

いつも元気で、近所の砂防公園で野球をするのが大好きだった。


彼は家の手伝いが大嫌いだった。

洗濯たたみ、皿洗い、お使い……

母から何を言われても、頑として手伝いをしなかった。

父親からゲンコツを食らっても(昔は普通の事だった)アカンベーをして野球に逃げる。


呆れた両親は、とうとう白旗を上げた。

「もう手伝いしろとは言わん。ただ、風呂沸かしだけは頼む。見るだけでいいから」


風呂沸かしは、先程の「バランス釜」の湯加減を見ることだった。


乙男さんは、2日は何とかこなした。

だが、3日目になるともう忘れてしまっていた。


「乙男!風呂の火を入れたから、いい湯加減で消しといてよ!40分くらいしたら見て頂戴」母が大きな声で言った。

「わかったよ!」乙男さんは返事をする。


だが、乙男さんはすっかり忘れてしまった。

「乙男……風呂は湧いた?」母に言われて、乙男さんは飛び上がった。


漫画を読んでいて1時間半が経過していたのだ。


乙男さんは浴室に入り、風呂の蓋を外した。

大量の湯気がもうもうと立ち込める。

風呂の湯はグラグラと煮立っており、凄まじい熱気が乙男さんにまとわりついた。


「しまった~。沸かしすぎた。叱られる」

乙男さんがつぶやく。

ふと、湯気を通して、お湯になにか浮いているのを見つけた。


目を凝らしてみてみる。


それは、人の形をしていた。

おもちゃの人形のようだった。


だが、人形ではない。

赤子だった。


煮えて裂けた皮や、白く変色した肉は水炊きの鶏を思わせる有り様だった。


煮立つお湯に揺られる赤子は、白濁した目玉をギョロリと向けてきた。


乙男さんは叫び声を上げて、母親のもとへ駆け寄る。

母の手を引っ張って、風呂に連れて行く。

「なんだってんだい?」と母。

「赤ん坊が浮かんでるんだ!」


風呂に戻ると、何も浮かんでいなかった。

ただ浴槽のお湯は煮立つばかりだった。

浮かんでいた赤子の水炊きは、そこになかった。

「あーあ、やったね!お湯を捨ててから、水で薄めないといけないだろ、ばか!」母は乙男さんをゲンコツした。


母は信じてくれなかった。

父が帰ってから事情を話すと、父は真剣な顔で言った。

「昔、そんな事故があったのかもなあ……。一応供養しとこうか」


父は知り合いの住職に頼んで念仏を唱えてもらったそうだ。

それからは、妙なものを見ることはなかったそうだ。


そんな事があって、乙男さんは妹が生まれた時、過剰なほどに「バランス釜」のお湯には神経を使ったらしい。

不用意に浴槽へ落ちたら、大ごとだ。

……決して、あの赤子と同じ目に合わすまいと。


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件の風呂はカセットコンロのようなもので、頃合いを見て火を止めない限り延々と加熱を続ける。

水を張って点火し、うっかり忘れると煮立つほどの熱湯になる……そんな事もあった。


昔はそんな風呂事情で、子供が誤って熱い風呂に落ち、大やけどをする……私自身、そんな事故もよく聞いたものである。


【おわり】

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