3月11日

今日は3.11。13年前、長女が生まれたばかりの我が家は、震災の日々は炬燵を中心にして過ごしていた。計画停電とかあったから、寒かった。遠い昔のようだが、被災地の皆様にとててゃ全く遠い昔になっていないことを忘れてはいけない。

朝一で、職場の一番偉い人に時間をもらって、現状の職場状況を報告する。一番の目的は、「次年度は自分は、今の役割では働きません」と明確に伝えることだった。年齢構成がいびつな僕の職場は、今後も庶務実務の担い手が減っていってしまうが、そこの穴を埋めようとはせずに、企画職のような人を増やそうといているところで、僕も企画職に属する人間なのだが、職場全体を見渡せば、僕も商務実務をやった方が職場が回る、という判断だった。恐らくこれは多くの人に反対されるから、誰にも相談しなかった。今後も考え直せとか、俺は違うと思うとか、がっかりした、とか色々言われるんだろうが、関係ない。自分の人生は自分で選びたいし、うちの職場は小さく、人事もなく、人事の勉強もしたこともない人が人事をしているくらいだから、そんななかでは自分の身は自分で守らなければいけない。

植本一子「愛は時間がかかる」を今日で8割位読む。トラウマの治療の話。

昔から僕は、語るべき物語が自分にはない、と感じている。空っぽというか、他人に対して特に自分を巡る面白い、話すべきエピソードなど、何一つない、という感じ。よく職場の人のなかにはお酒の席で、俺はあーだったとか、こんなことがあった、とか俺は苦労した、とかあれは大変だったとか永遠と話し続ける人が何人もいるけど、僕には思いつかない。僕が話せることは、かつて考えていたこととか今考えていることとか、過去の体験の意味が今更変わったこととか、そういうことで、思い出とかも特にあんまりないような気がする。

僕は生きづらさを感じているし、抱えてもいるとも思うけど、なにか植本一子氏のようなトラウマを抱えているとは思わない。ただ、過ぎ去っていく(there she goes)ばかりで、多分多くのことに傷ついてきたのだろうけど、それは今もっと残されたものではなく、その場や一定期間傷ついて終わっているような気がする。

少しだけ思い直してみる。

一番始めの記憶はなにか、と言われると正確には分からないけど、幼稚園のことを思い出す。例えば、仲が良かった櫻井くんと一緒に帰る途中で、魁男塾(なぜ幼稚園生の時に魁男塾を読んだのか不明)で読んだ「ブランクで体がなまっちまったぜ」というセリフを話しながら、まっ黄色の菜の花畑を走りながら帰って、一緒にいた櫻井くんのお母さんに「難しい言葉を知っているのね!」と言われたとか、年中の時に転入生できた楠木くんというこの様子に少し違和感があって(今思い返せば自閉症だった)、心配になって話しかけたこととか、幼稚園の近くにあったプラネタリウムで鬼のパンツは良いパンツの歌を、鬼の格好で幼稚園の先生達が踊りながら踊っていて、腹が捩れるほど笑ったとか、何だか色々と覚えている。

いじめられたことおあるし、中学校の部活ではいきなりハブにされて(悪ガキが順番に誰かを集団ムシするというよくわからないことが起きていた)困ったこともあったし、ここではかけない悪いこともしたし、色々あるけど、それが自分の人生に影響を及ぼしたとは感じられない。

自分に決定的な影響を及ぼしたのは高1のときに、一気に自分のアイデンティティについて考えるようになったことで、そこから今でもその海の中にいると思う。自分も、当然人も、言葉の機能も身体の動かし方も、感情もわからなくなっただけで、それをどう恢復?会得?していくのか、みたいなことが今でも続いている。

ちなみに、一番でも無いのかもしれないが嫌だったことで覚えているのは、小学校5年か6年のときに、夏休みの読書感想文が国語の先生に認められ、「もう少し手直しすれば、賞に出せるから頑張ろう」とか言われて、放課後残されて修正をしていったことだ。僕は学校代表で市の陸上大会にも出るからその練習をしなくてはならなかったのだけど、その国語の作文の修正をしなくてはならず、斜めに夕日が差さるグランドを、校舎から、国語の先生の話も耳に入らない僕はぼーっと見ていた。なんで僕は、こんなことをしなければならないのだろう、なんで自分で考えて書いた読書感想文を手直しするのだろう、と思っていた。

結局僕は、読書感想文は出さなかった。先生に言われて修正されてしまったそれは、もはや僕の読書感想文ではなかったからだ。僕は、自分の家の机と壁の間に読書感想文を落として隠し、「無くしてしまいました」と確かその先生に謝った。
なんのためにあの先生は、修正してまで賞に出そうとしたのか、未だにもってわからない。

ちなみに、長女と長男は読書感想文で賞を取ったけど、学校では直されていない。僕が一緒になって、インタビューしながら書き上げていった。

植本一子の本には、自分のこれまでの人生がどんな感じだったかのバイオグラフを書く、というのがあって、今度僕もやってみようと思う。自分の人生のピークっていつだったかな、思い当たるところがない。

僕は人生は思い出すことだと思っているふしがあるので、意味付けがその都度変わるような気もする。

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