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ささなおの転職ストーリー

数えてみたらかなり転職している私。その経験はかなり特殊なので、もしかしたら誰かの暇つぶしくらいにはなるかも?もったいないから(お題に合わせて無理やり入れてみる笑)、ここで一度まとめてみたいと思います。

◎1995年3月、清泉女子大学文学部英文学科卒業。2年生の時に、必修以外の科目を履修しなければいけないのを知らなかったため、4年生で42単位残っていたので卒論が書けず、苦肉の策で卒業レポート作成。『クリスマス・キャロル』に出てくる、当時の社会事情を表すキーワードを調べたいと先生(アラン・ターニー先生)に申し出たら『それは社会学部の大学院生の研究テーマです』と言われ、初めて自分の興味の矛先が“文学”ではなく“社会学”だったことを知った、大学3年の春(遅すぎた)。(なんとか卒業はできたが、人生で最も勉強した1年間だった。バブル崩壊元年だったのに就活もまともにできず、卒業が確定した1月31日から慌てて就活をしたのが、私の転職人生の始まり。)

◎事務希望で受けた広告代理店の最終面接で、なぜか社長に気に入られ
「やーきみ面白いなー!どうだ、営業をやってみないか?」
と聞かれて軽く「ぜひー🎵」なんて答えていたら本当に営業職で採用され、1日に30件飛び込み営業する生活が始まる。配属1ヶ月で別の場所に転属になり、またゼロからのスタートで毎日泣きながら頑張るも、神経性胃腸炎に罹患し骨と皮だけのような状態になり、新卒後3ヶ月で退職。その履歴が現在まで転職のネックに。(当時、上長(女性)に申し出たら、突然泣き出し、「あまりにも急激に痩せたから、命に関わる病気になったと思ってみんなで心配してたのよー!もう明日から来なくていいから、安心して休んでね!」と言われあっさりクビに。どうして配置換えとか有給休暇とか教えてくれなかったんだろうと気づいたのは、それから20年経ってからのこと。)

◎大学の時の教育実習で、指導教官(大杉正明先生)や校長先生から大層褒められたことを思い出して地元の中学校教員採用試験を受けるも、公務員試験というものを知らず、受験1週間前に初めて『憲法などを勉強しないといけない』ことを知る。当然1次試験で落ちる(マークシートも全部埋められなかった)と思っていたのに、1次試験の面接(受験者10人に対し面接官2人)の点がよほどよかったのか、どういうわけか合格。2次試験に進んだところ、今度は落とそうという圧迫面接という感じで(受験者1人に対し面接官10人)、やはり不合格。「そういえば学生時代、気の合う先生がいなかったなー。あの先生たちの同僚になるとか無理だわ。教師は向いてないや!」とあっさり諦める。

◎地元の外資系企業で営業事務として採用され働き始めるも、最初のボーナスの時に、どういうわけか総務のエクセルの不具合で私にだけボーナスが100万円多く振り込まれる事件が勃発。「社会人のボーナスってすごいんだなー!」と勘違いした私は、英会話を習ったり旅行に行ったりしてあっという間にそのほとんどを使ってしまう。次のボーナス時にあまりの金額の減りように驚いて総務に聞きに行ったところで、間違いだったことが発覚し、会社から金額の返金を求められるも手元にお金がなかったため『これからも働く』という条件で、月給から分割で返済することに。

◎24歳で学生時代に少しだけやっていた演劇活動への情熱が再燃し、25歳の時に演劇に専念するため仕事を辞める(というか、舞台に出るため自分が持っていた有給休暇を利用して2週間休みを取ろうとしたら部長から退職勧告を受けた)。

◎舞台が終わってから、また別の外資系企業に就職。10人しかいない会社なのに1年間で8人辞めるということが起こる。(ちょうど私が入る前に、社長として某老舗デパートを定年退職した人が入ったところで、その人が社員をイビるタイプの人だったため、仕事ができる人からどんどん辞めていっていたのだった。そして最後にイビリの矛先が私に向いてきたので辞めた。最終的に人員は8人になっていた。辞めた人の補完として採用してもまた辞めてしまうのだった。)

◎某国際電話会社に時給800円のアルバイトで入る。職種は請求書発行担当の事務なのに、どういうわけか電話の受け答えの厳しいOJTがあり、そこで鍛えてもらったおかげでその後の人生が拓ける。

◎国際電話会社の上司たち10名ほどが一斉に仕事をボイコットして来なくなり、アルバイトに重責がかかる。2週間ほど経った頃、「時給800円でこんな大変な仕事続けられない」と転職を決意。母が新聞広告で見つけた某メガバンクの代表電話交換の仕事に応募しようと連絡先に電話したら、電話口の男性から「きみ、採用。明日履歴書を持って来なさい」と言われ、狐につままれたような気持ちで翌日足を運ぶと、担当者(総務室次長だった)が私の顔を見て「ああ、思った通りの人だ。声には人柄の全てが現れる。あなたは信頼できる人だ」と、本当に採用される。そこから5年、楽しく働く。

◎32歳の夏休みに遊びに行った先で泊まった旅館の若旦那と仲良くなり結婚することに。ところがそこの温泉地の若手(後継たち)に仲間外れにされ、外に出ないと死ぬと思い、積極的に市や県の観光勉強会に参加する。そこで様々な人たちの積極的な取り組み(町おこし、若手農業集団、観光カリスマ、立命館アジア太平洋大学など)を知る。

◎35歳でメンタル危機。ハワイでヒプノセラピーを学び、ヒプノセラピストになる。資格取得後、自律神経失調症から鬱になり、旅館の仕事を辞めて仕事を探したところ、「なまってない」という理由で地元CATV局に時給1000円でアナウンサーとして採用される。番組企画から映像編集まで学び「ひとり放送局」ができるようになる。のちにYoutubeを始める時、大いに役立つ。

◎38歳で離婚、東京に帰る。2度と結婚したくないと思い、とりあえず仕事を探す。なんとか派遣社員で勤め始めた2011年3月、東日本大震災。市ヶ谷から町田の自宅まで歩いて帰ろうとして帰宅難民になる。『職場には徒歩で通える場所じゃないといけない』と痛感する。2ヶ月に1回契約更新というハードモードにメンタルが耐えられなくなり、転職を考える(死ぬまで一生、2ヶ月に1回『もうクビかもしれない』と怯えて過ごすのはさすがに無理だと思った)。

◎旅館の嫁時代の知り合いの方のご紹介で、某大学の某学部研究室事務室に、3年の期間雇用の途中で辞める人の引き継ぎで就職する。翌年の春に、職場から徒歩40分の場所で、人生初の一人暮らしを始める。職場が、研究棟の中のサテライト事務室のような場所で、普段は私以外にアルバイトの方が2人来てくれていたが、夏休み中に、事務室に自分以外誰も来ず、朝昼晩ひとりぼっちで食べ、誰とも話さないという生活になり、メンタルがやられ鬱状態になり、仕事が全く出来なくなってしまう。雇用期間終了後、契約延長のための内部評価点が、全契約職員中、下から3番目という低評価を受け、事実上のクビに。ところが同じタイミングで別の大学の大学院に転職する先生からスカウトを受け、その先生のアシスタントとして、当時住んでいた家から徒歩15分の大学に転職する。

◎同じタイミングで、「一生非正規雇用はつらいかもしれない。ここらで起業について学んでみたい」と思い、女性起業入門コースなるものを受講し、起業を試みるが、全く鳴かず飛ばずでほぼ1年を過ごす。最初は動画制作を教えていたが需要がなく、知人のアイデアでスピリチュアルセッションを提供し始める。

◎2度と結婚したくないと思っていたはずだったが、どういうわけか42歳の初夏、「あ、結婚しよう。結婚だ。結婚しかない。」とひらめき、婚活コンサルを受けてネットの婚活サイトで婚活スタート。カナダのトロント在住の日本人(日本の銀行のトロント支店で、現地採用で働く金融マン。つまり駐在員ではない)と出会って翌年結婚、トロントに渡ることになる。

◎「42歳、結婚してトロントに移住する」ことがSNSで公になった途端、個人起業のスピリチュアルセッションがバズる。収入が増え、移住後もネットで仕事をすることに。それからカナダ在住の4年ほど、日本とカナダを行き来しながら、スピリチュアルの仕事で生活費を稼ぐ。

◎2019年3月、夫が仕事を辞めたため、ふたりで日本に本帰国。最初は夫の職場が岩手だったので一緒に標高600mのスキー場の脇に住む。その後コロナ禍になり、ネットで仕事をする環境が大いに役に立つ。

◎2020年8月、夫が岩手の会社を辞めて起業することになり、ふたりで東京に引っ越す。しかしコロナ禍の影響もあり、経営不振で撤退を決意。2022年6月、夫が転職に成功、ふたりで夫の職場に近い東京都武蔵野市に引っ越す。

そして現在に至る・・・という感じなんですよね。
今一番気になるのが、中年女性の働き方についてです。
私自身、団塊ジュニアですし、非正規雇用の女性や、専業主婦からの復職などの話などがとても身近で、もっと多様な働き方が出来ないものかな、とよく思っています。
どうも私は、子供の頃から社会学に興味があったようで(それに気づいたのは大学卒業間近だったのですが)、やはり社会全体の問題などは気になるんですけど、中でも自分自身のことですから、50歳からの女性の働き方はとても気になります。

働き方は、生き方そのものに繋がって来ますから。

これからは、現在ある仕事や働き方だけでなく、新しいスタイルや業態の創生が不可欠だと思っておりますので、専業主婦からの復職や起業などについて一緒に考えられる仲間がいたらいいな・・・と密かに思っています。
「働けないから生きていけない」世の中から、
「働けるから生きていける」世の中に、さらに
「楽しく働けるから毎日が楽しい」世の中に、変えていけたらいいなあ。
一緒に考え、実践していける仲間が、今、最も欲しい存在です。

はー、長々と書いてしまった。
ここまでお読みいただいた方、ありがとうございます!
ちなみにトップに選ばせていただいた画像、指に顔が描いてあるじゃないですか。
私、アナウンサー時代に、あんな感じで、指に顔を描いて
『親指落語』
っていうのを番組内でやったことがありました・・・。お題は『まんじゅうこわい』で。(取り上げた題材が、地元の歴史あるおまんじゅう屋さんにまつわる話だったんです。)
いやーあれ面白かったなあー!制作側も爆笑しながら作ってて、あれはほんとに楽しかった。

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