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漢字の表す風景のドラマ

※366日間チャレンジ、138日目。

白川静、と聞いてピンとくる方も多いかもしれない。
そう、今は亡き、漢字研究の大先生である。
私は以前から白川先生の大ファンで(とはいえ先生の本はほとんど読んだことがないのだけれど)地元の図書館で先生の『私の履歴書』(日経新聞)に寄せられた内容が収められた本を、ようやく最近借りた。

今日が返却日だったので、あわてて図書館まで行って読んでいたのだけど、いや本当に面白かった・・・。

確かに漢字は『表意文字』ということで、意味を表した文字だということは、知ってはいる。知ってはいるんだけど、実際に文字を見たときに、その文字の背景にある風景やドラマまで想像しているだろうかと問われると、答えは否だ。

『山』『川』くらいまではわかる。
でもそれ以上に複雑な漢字となると、その字源は全然わからない。
でも、漢字である以上、その文字の成り立ちには、必ずベースとなる物があるはずなのだ。

小学生の時、子供向けの漢字の辞典に、その文字の元となった絵が描いてある本があった。

私はあれが大好きで、かなりハマっていた。

白川先生は、そんなふうに、漢字の持つ背景の風景に思いを寄せながら漢詩を味わうと、その詩の向こう側に立体的に風景が見えて、より感動が深く呼び起こされるということをおっしゃる。

確かにその通りだ・・・そしてそのことを教えられる国語教師はほとんどいないだろうし、そのようなことを教えられる授業の余裕の時間はないだろう。

そうすると、漢字は、意味を持たない、ただの記号になってしまう。
書き順なども意味がないだろう。

でも、そういう教育、あるいは文化に、白川先生は警鐘を鳴らしていたのだ。

何よりも、あてがわれただけで満足し、それ以外を余分のこととする教育が、人間を規格化することは確実である。

『白川静著作集』第12巻ー雑纂ー p.541

今の日本がまさにそのような人で溢れている気がする。
あてがわれただけで満足し、それ以外を余分のこととして生きる人がほとんどなのではないか?

そのことに疑問を持つことすらしない人が、ほとんどなのではないか?

先生はまた、与えられる知識だけでなく、それに対して疑うことが、学びの始まりだとすら説いていらっしゃる。

知識は、すべて疑うことから始まる。疑うことがなくては、本当の知識は得難い。疑い始めると、全てが疑問に見える。それを一つずつ解き明かしてゆくところに、知的な世界が生まれる。単に知識のことばかりではない。世上のありかたすべて、そのままでよいはずはない。

『白川静著作集』第12巻ー雑纂ー p.548

っくぅ〜、しびれるぜ、このパンクでアナーキーな感じ。
学問だけじゃない、生き方そのものについて、がつーんと言われている気がする。

疑え、私よ。
今のこの生き方を。
今のこの世の中を。
『このままでよいはずがない』ことに気づいていながら、諦めていること全てを。

トップ画像はこないだの富士山。
『山』という漢字の向こう側に、この風景を見出せることが、漢字を使う人たちの根底に共通する感性なのだ。

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