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#117 北風や太陽より、力強いもの

イソップ寓話の『北風と太陽』は、みなさんはどこで最初に読み、どういう風に教わりましたか?道徳の授業で読んだという人も、あるいはもっと早い段階で幼稚園の先生に読み聞かせてもらったという人もいるかと思います。今日は、最近思っている、「北風も太陽も、どちらも不正解なのではないか」ということを考えてみたいと思います。



児童文学論

大学時代に、「児童文学論」という授業を取っていました。誰もが知っていて、多くの人が小さい頃に触れるであろう物語を、教える側として、教育的効果がどこにあるのかをまず考察し、次に「今の時代もそのメッセージで本当にいいのか」を考えるというなかなか深い授業でした。もし今もその授業があるなら、今日ここに書くトピックを出前授業してみたいな、と思いました。

イソップ寓話『北風と太陽』では、北風と太陽が力比べをします。通りがかりの旅人の外套をどちらが脱がせられるかという課題を立て、北風はその名の通り強い風で外套を吹き飛ばそうとするが叶わず、一方の太陽が暖かく照らすと、旅人は自分から外套を脱いだ、というおなじみの話です。ここで、何か変だと思いませんか?僕は大いにモヤモヤしました。

不快感に訴えるのは同じ

よく考えると、風で飛ばされまいと外套を押さえるのも、太陽に照らされて外套を脱ぐのも、どちらも「不快感」からくる行動です。太陽が照らせば旅人は自分から外套を脱いだ、といかにも平和主義的に書かれていますが、要は「旅人に不快な思い(=暑い)をさせて」外套を脱がせたわけです。僕はどちらもいい方法ではないと思いました。あるいは、社会文化類型論的に考えるなら、太陽は日本的発想かもしれません。この点については最後に書きたいと思います。

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原動力となるべき本来の感情とは

元教師として、人間の行動の原動力となるべき本来の感情は、不快感ではいけないと思っています。不快感を避けるための勉強や行動も必要ですが、それだけでは人間は本当には幸せになれないように思います。では何がいいか、それは「好奇心」ではないでしょうか。言い換えれば「楽しさ」です。
 例えば、北風と太陽の次に、楽しそうなスポーツをやっている人たちが旅人の前に現れたとします。「自分もやってみたいが、外套はじゃまだから脱いでその輪に入ろう」という第三の方法があれば、「暑いから外套を脱ぐ」よりもずっと素敵だと思うのですが、みなさんはどう思いますか?
 教育学部などの入試問題で「イソップ寓話の北風と太陽をどちらとも不適切と考える場合、どんな第三の選択肢があり得るか、教育的コンテクストを念頭において論述せよ」という問題を出題すると面白いと思います。

本当は怖い太陽

最後に、僕が太陽のやり方は実は怖いと思う理由を述べておきます。コロナ禍を思い出してください。日本は、いわゆる「自粛」に頼った政策でした。法律で義務付けていない「自粛」をしたのだから、その結果(倒産や廃業など)は、政府の責任ではありませんよ、という発想です。
 これは、太陽が旅人に暑い思いをさせ、脱いだ外套が仮に風で飛ばされてしまっても「自分で脱いだんだから、知りませんよ」的な政府の態度に見えてきます。外套を脱ぐ行為は一見「能動的行為」に見えますが、実は暑いという不快感を与えられたことへの反応です。「面白そうなスポーツをやっている人がいるから」外套を脱ぐこと(理由も能動的)とは根本的に異なる行動です。

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「児童文学論」では、現在の生徒に教えるなら、昔からある童話や寓話のどの部分に問題提起をして、どう生徒に考えさせるかということを活発に話し合いました。いつか実際に議論された物語についても改めてご紹介したいと思います。

学生時代に、文化祭や学園祭の準備とかでワクワクしている時、上着脱いで腕まくりしましたよね。あの時の感覚が、人が何かをする時の最適解だと思います。

今日もお読みくださって、ありがとうございました☕️
(2024年3月21日)

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