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この男、毒か、薬か。

「なんでお前のホルモンバランスに、俺が振り回されんといかんとか!」

夫である彼は、私に向かってそう言い放った。


明らかな毒。


彼は作業着を着たまま毒を放った。
帰宅後まだ手を洗う前。
リビングのダイニングテーブルに荷物を置いている最中だった。

仕事から帰ってほとんどすぐに、彼は私にそう言い放ったのだ。

一重瞼の下の目に愛情の欠片も見えない気がした。
もしかすると彼はすでに人を一人くらい殺めてきたのではないか、と思うくらいにその目は冷たい。

彼がブラッドピットで、私がアンジェリーナジョリーであれば、すでに殺し合いのゴングは鳴っているはずだ。

だがしかし、ここは日本の西側に位置する福岡のごく平均的なマンションの一室であり、私たちは両親ともに日本人の、生粋の日本人だ。
瞳の色は真っ黒で、髪も黒々としている。
殺し合いのゴングなど、この古いタイプのマンションの3LDKのリビングで決して鳴ることはない。

私は彼から放たれたその声を聞いて、ただただ黙るしかなかった。

すでに結婚から2年は経過していた。
新婚ではない。
交際を始めてから数えると、ゆうに6年は経過。
恋愛ドーパミンなどすでに底をつき、一滴も分泌などされていない。

怒られちゃった。悲しい。くすん。
なんで、こんなに大好きなのにわかってくれないの!!
というような感情が湧くはずもない。

むしろ湧くとすれば、殺意かもしれない。

その頃の私は、長男の育児のため育児休業を取得していた。
初めての出産、初めての子育て、全てが初めてだった。

私の実家は私たちが住むマンションから、スープの冷めない距離にあった。
歩いて3分程度。
私は不安なことがあれば、いつでもすぐにでも母を頼ることができた。
それはさながら助けてドラえもん! と全てをドラえもんに委ねるのび太のようだった。

そんな恵まれた環境だった。
初めての子育てだからと言ってさほど気負いもなく、なんとかなっていた。

とはいえ、赤子は親の思い通りに過ごしてくれるわけではない。
やはり夜は寝ない。
昼だって、寝ない時は寝ない。
そして、すぐに泣く。

母乳をやり、おむつをかえ、抱っこをし、再び母乳をやる。
同じことを繰り返す。
母乳、おむつ、抱っこの耐久レース。
何を求められているのかがわからないが、やるしかなかった。
それが子育てだと言われたら、途中で放棄するわけにはいかない。

赤ちゃんは泣くのが仕事。

そう言われましても。
泣きたいのはこちらも同じです。

と言いたい気持ちをグッと堪え、再びおむつを変えたりする。

育児休業中は当たり前に収入が減った。
働いていないから当然だ。
結婚当初二人で分担しようと決めていた家事も、私が家にいることで、いつの間にか全て私の仕事になってしまった。

結婚前には週3で飲みに行っていたのに、飲みにも行けない。
それどころか、遊びにもいけない。
そもそも妊娠中から、アルコールなんて口にしていない。
多分、もう1年以上は大好きなビールを口にしていなかった。

美容院にだって行くのを躊躇ったりする。

完母で哺乳瓶に口をつけない息子を置いて、どこかに出かけるなんてことはできなかった。
片時でも離れると泣き喚く長男を預けて出かけることは現実的に難しかった。

小さな、ただ息をして泣いて、たまに笑うだけの、私の中から出てきたこの生き物と二人だけで過ごす朝8時から夕方6時。

閉鎖的な幸せな空間。

柔らかい生き物のあたたかい体温。
ゆるりと流れる時間。
気だるい昼下がりに、柔らかいオーガニック素材のブランケット。

しかし、時に、ふとした時にそれを寂しいと感じてしまう。

私の世界は一変してしまった。

忙しなく働いていた私。
時間なんて気にせず夜の街に繰り出していた私。
手を繋いで映画を見ていた私。
定期的に美容院に行っていた私。
好きな服を着て、好きな靴を履いていた私。

あまりに変わりすぎて、過去の私の原型は留めていない気がした。
気がつけば、私は別の生き物になってしまっていた。

自分でも気づかないうちに、私は息をする度にストレスを吐き、自分でそのストレスを吸い込んでいた。

完全母乳の私は生理も始まらなかった。
抜け毛も増える。
お腹もすく。
空いた腹に溜まっていくのは、不満。

ホルモンバランスは崩れまくっていた。

このストレスをぶつけられるのは、小さな赤子ではなく、私より大きな彼だった。

私は彼が帰ってくるなり、ストレスをぶつけたのだ。
小さなものも大きなものも。

私が吐いた息は、私の体に纏わりついた。
私はそれをかき集めては、ぎゅっと強く握る。
おにぎりだったら、米粒同士がくっつきすぎて美味しくないやつだ。
それが雪玉だったら、誰よりも強く雪合戦では王者となる。

ストレスを掻き集めては握り、私はそれを彼へぶつけた。

産後、ホルモンバランスが崩れているうえに、初めての育児にストレスを感じている可哀想な私、という防具を手に入れていた私は、この攻撃は完全に正当防衛だと思っていた。
そして十二分に私や子どもに向き合わない彼は悪であり、敵であると。

ストレスをぶつけられ続けた後に吐いた彼の言葉は、毒だった。
しかし、正論だと思った。

毒は彼でなく、私だった。
彼は毒を以て毒を制したのだ。

この話をする時、私は彼を悪役に仕立て上げることができる。

育児を手伝わない夫。
家事を放棄した夫。
非協力的な夫。
暴言を吐く夫。

そう仕立て上げられた夫の話をすれば、きっと誰しもが私を正しいというだろう。
誰がジャッジしようが、私を勝者に仕立て上げることは容易だと思う。

でも私自身のジャッジは、彼に軍配が上がった。
私は白旗をあげた。

「ごめんなさい」

それしか言えなかった。

そして、口からこぼれた「ごめんなさい」と一緒に、かわいそうな私がぽろりと剥がれ落ちた気がした。

私は何もかわいそうじゃない。
ただ、ホルモンバランスが崩れているだけだ。

自分に起きる様々な不都合をその情緒の不安定な天秤に乗せて、私は全てをジャッジしていたのだと気づいた。

ジャッジする物の反対側には、いつも〇〇な私が乗っていた。

かわいそうな私
大変な私
がんばっている私
我慢している私

確かに、それは間違っていない。
かわいそうな部分もあるし、大変な時もあるし、頑張ってもいるし、我慢だってしている。
何一つ間違っていない。

絶対的に正しい。
正当化していい。

でもさあ、と私が言った。

正当化して何になるのさ。
みんな同じように大変で、頑張ってて、我慢だってしてる。
狭い世界で如何にも自分が悲劇のヒロインみたいな顔をしたって、そこに救いはない。
王子様は助けにこない。
むしろお前の王子は、目の前で毒づいてるよ、と。

それからの私は全てをホルモンバランスのせいにした。

そう決めてしまうと全てが簡単だった。
イライラしていても、怒りのベクトルはホルモンバランスのせいになった。
彼のせいでもなく、息子のせいでもなく、全てはホルモンのバランスのせいだ。

実際、同じ出来事も、私の精神状態次第でイライラしたりしなかったりする。

なんで家事を手伝ってくれないのよ!が、彼も仕事が大変なんだし、だったり。
お腹すいて泣いてるのね〜が、さっき母乳あげたやん!だったり。

昨日腹立たしくて仕方なかったことが、次の日になるとけろっとなんでもなかったりする。
逆に、ものすごく平気だったことが、翌日になると信じられないくらいに向っ腹が立ったりする。

それを全て、
「ホルモンバランスのせいだから仕方ないのよ。だって、私、女だもの」
と、したり顔で夫にぶつけていたのだ。

昨日は文句を言われなかったことを、今日になって文句を言われたりするなんて、流石にうんざりだよな、と思った。
毒を盛られてやっと、自分の状態に気づけた気がした。

彼にとってあの発言は、毒でもなく薬のつもりだったのかもしれないし、特に何も考えていなかったのかもしれない。

でも、私には薬になった。

それからは、苛立って仕方がない時も、無性に悲しい時も、原因を考える時に目の前の誰かのせいにしなくなった。

まずは、自分の体調を省みる。
そうすれば、自ずと落ち着いてくることがわかった。

もし、彼が苛立つ私を慰め続けていたら……と思うと、私は鳥肌が立つ。
常に毒づいている彼が私を慰め続けることなどは、2023年が13月を迎えるくらいに絶対にあり得ないことだとは思うけれど。
慰められ続けられていたとしたら、私はきっと、〇〇な私という防具を着続けていただろう。

〇〇な私を捨て去ると、苛立っている人を見ても、落ち着くことができた。
きっと、彼女は今ホルモンバランスが崩れているのだろう、彼は体調が悪いのかもしれない、と思うことで溜飲を下げることができる。

私は防具を脱ぎ捨て、とても息がしやすくなり、生きやすくなった。
苛立っても、悲しんでも、落ち続けるということが少ない。

夫が、毒か、薬か。
正直なところ、毒だろうと思う。

口は悪いし、家事育児には非協力的だ。
短気で、すぐに怒る。
21世紀になって随分経つというのに、典型的昭和の頑固オヤジの風を吹かせながら歩いている。

私はすでに中毒を起こしているのかもしれない。
いや、麻痺しているのかもしれない。


けれど、毒は変じて薬となるのだ。



ひねくれた私は、ただただ薬になるような優しいオーガニック素材のような人に惹かれることは少ない。

刺激的で、自分にないものを持っているような、そして少し毒のある人に惹かれてしまう。

魅力的で、魅惑的なのだ。

しかしあまりに毒も過ぎると、それはどうなのかと思ったりもする。
人には全くオススメできない。

それでも私は、夫の毒を喰らい続けることで、自分の変化を感じている。
目の前に毒があれば、自分が同じような毒になるまいと思うことで、変わることができたりもする。

ただ、彼も毒ばかりではないことは、彼の名誉のために書き記しておこうと思う。

魚を釣って帰ればせっせと捌き、私の前に刺身と刺身醤油と箸とわさびを用意する。
私が休日出勤をすれば、私の帰宅後のつまみにと一日中、何かを燻したりする。
コンビニによれば私が好きなコンビニスイーツを買ってきたりする。
映えスポットに行きたいと言えば、後ろで眠りこける私を乗せて、どこまでも運転したりする。

実は優しい彼が、なぜ毒ばかり吐き続けるのかはわからない。

きっとツンデレというやつなのかもしれない。

仕方がない。
彼が毒を吐き続けるのは諦めるしかない。
私はその毒を喰らうと決めたのだ。



毒を食らわば皿までだ。




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