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奇想ノ八「楊貴妃を救い出せ〜吉備大臣入唐絵巻に隠された密命」

傾国の美女と呼ばれる楊貴妃をお存知でしょうか。世界三大美女のひとりにも数えられ、また唐の玄宗皇帝の寵愛を一身に受けてついには唐帝国を衰亡に向かわせた文字通りの「傾国の美女」です。楊貴妃は安禄山の乱で死んだと伝えられています。しかし世の人々が惜しむ人物には必ず生存伝説が付き纏います。平安末の源義経、戦国の明智光秀、幕末の西郷隆盛、そして楊貴妃にも。舞台は奈良時代の日本です。この美女の不思議でロマンティックな生存伝説を追跡する奇想に旅立ちましょう。

奇想は二人の唐への留学生から始まる

 このロマンティックな楊貴妃生存伝説は二人の唐への留学生の物語から始まります。それは吉備真備と阿倍仲麻呂です。二人は716年の第9次遣唐使の留学生として共に入唐します(留学生として僧玄昉もいました)。この二人は唐において日本人留学生でありながら知識人としても名を馳せ、当時の玄宗皇帝にも愛されます。
 真備は唐で史書、経書、天文学、音楽、兵学、また陰陽道(多分道教)などを学び陰陽道の祖とも称され、膨大な知識や書物、最新技術と共に734年の第10次遣唐使で18年間の留学生活を終えて日本に帰国しました。

奈良時代の学者、政治家、陰陽師として大活躍した吉備真備

 一方の阿倍仲麻呂は唐でも評判の優秀さで官職にも付いていたせいか(玄宗皇帝に愛され帰国できなかったとも言われています)、ついに日本に帰国することは叶わず770年に73歳で客死します。唐朝において玄宗、粛宗、代宗三代に使えるという日本人としては稀有な人生を歩みました。仲麻呂が詠んだ望郷の歌「天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出し月かも」だけは日本に帰り着き、小倉百人一首にも収録されています。

仲麻呂は異郷の地で客死するが、彼の詠んだ歌だけは日本に帰り着いた

 この二人の男が、752年に発した第12次遣唐副使として17年ぶりに唐の地を踏む吉備真備を描いた「吉備大臣入唐絵巻」(ボストン美術館所蔵)の登場人物なのです。
 この第12次遣唐使は色々な意味で少し異常な遣唐使でした。それは遣唐使派遣の裏に隠された時の女帝・孝謙天皇からの秘密命令があったからです。

安禄山に命を狙われる楊貴妃と楊国忠

 楊貴妃が死んだといわれる755年前後の唐の政治状況を整理しましょう。まず基本的な時代背景として唐朝内部の腐敗と民衆を顧みない玄宗皇帝の政治がありました。玄宗は自らに近く愛した者を多く取り立て、また権力を与えていきます。寵姫の楊玉環(楊貴妃の本名。貴妃は皇后に次ぐ妃としての地位名称)と楊家の兄弟や一族もその玄宗に取り立てられたのです。玄宗は統治には興味を示さず日々酒宴や舞や踊り、音曲に耽溺しました。そうした腑抜けの皇帝にしたのは楊貴妃と楊一族だという弾劾がやがて国内に立ち昇ります。

長恨歌図屏風(東京国立博物館蔵)に描かれる玄宗と楊貴妃

 その弾劾の急先鋒が幽州の節度使(地方の軍閥長官)の安禄山だったのです。安禄山は胡人(突厥のソグド人?)とされ、契丹との国境地域の有力一族出身と言われます。そして唐において胡人として高い官位など望めない安禄山が節度使や都督にまで出世したのも玄宗の寵愛があったからでした。楊貴妃一族も安禄山も玄宗の寵愛を権力の源泉にしていたという点は同じだったのです。当初それをよく自覚していた安禄山は玄宗に阿るために願って楊貴妃の養子になったり、楊貴妃の姉妹と義兄弟にもなっています。こうして軍人としても抜群の夷狄討伐実績と、巧みな宮廷工作により安禄山は着実に力を付けてゆき、そしてついには楊一族に取って代わろうとするのでした。
 こうした安禄山の行動を見ていた河西・河東の節度使王忠嗣や皇太子李享(後の粛宗)は「安禄山は必ず謀反するでしょう」と玄宗に幾度も忠告しています。しかし玄宗は耳をかざす、安禄山に力を与え続けるのです。そうしてついに起こったのが9年にも及ぶ反乱「安禄山の乱(安史の乱)」なのです。

唐朝を滅亡間際までに瀕させた節度使安禄山

 安禄山の乱の直前にライバル(政敵)である楊貴妃の従兄弟、楊国忠が唐の宰相に就任します。そして安禄山を讒言したといわれています。それが直接の引き金かは分かりませんが、754年に安禄山は武装蜂起し遼東に燕国を建国します。そのまま洛陽にまで進撃占拠し「燕国、雄武皇帝」を宣言即位しました。洛陽は玄宗のいる長安のもうすぐ隣です。
 玄宗は長安を脱出して蜀に逃亡します。その逃避行前後に玄宗の多くの腹心が捉えられ、そして宰相楊国忠も唐軍兵士によって殺されてしまいます(離反して安禄山側に寝返ったのでしょう)。蜀への逃避行の最中、755年寵姫楊貴妃も宦官の高力士の手により縊死させれたと伝わっています。
 こうした唐王朝の崩壊状態の中で皇太子李享は玄宗の同意なく皇位継承を宣言して粛宗となります。そして安禄山への反撃を開始するのです。玄宗はそれを事後承諾するしかなく、自然廃帝となりました。玄宗は安禄山の乱終結後に長安に帰還しますが、軟禁状態で余生を送り762年に没しました。

異例つくめの遣唐使と不可解な安禄山の行動

 こうした安禄山の乱が起こる直前に吉備真備が副使を務める第12次遣唐使が入唐したのでした。そして入唐する真備を描いた「吉備大臣入唐絵巻」の悪役として安禄山が登場するのです。
 絵巻は長いので全ての内容は語れませんが、要所をいうと入唐した真備に唐側(主に安禄山)がさまざまな無理難題を出して殺そうとするのです。ですがそれらの難題を真備の才智と、鬼(生き霊)となった盟友阿部仲麻呂が協力してくぐり抜け、無事に日本に帰還するという物語になっています。無理難題を出し真備の命を狙う唐の悪役が安禄山なのです。
 この絵物語は唐の状況をよく反映していますが、少し不可解な部分もあります。
1)日本からの正式遣使(しかも副使)をなぜ安禄山は殺そうとするのか
2)この時まだ存命中の阿部仲麻呂を鬼(生き霊)として登場さるのか

真備が幽閉された高楼に出現した鬼は阿部仲麻呂の生き霊だった
吉備真備と阿部仲麻呂(生き霊)が空を飛んで安禄山に対抗し活躍する姿を描いた入唐絵巻

 実はこの第12次遣唐使の副使に吉備真備が選ばれたのは少しおかしいのです。そもそもこの時期、吉備真備は太宰帥として大宰府にあり、政敵藤原仲麻呂により左遷状態にありました(真備は橘諸兄派で反仲麻呂グループ)。そして遣唐使の人員が発表されると、後で無理に押し込むように追加の副使に任命されるのです。しかも遣唐正使の藤原清河は従四位下、副使である大伴古麻呂は従五位上であったにもかかわらず、追加副使の吉備真備は従四位上だったのです。正使より副使の真備の方が位が高く、また先任の同じ副使も四階位格下です。どう見てもここに真備を副使に入れることは不合理です。その辺りの不都合さを矯正するためか、遣唐使出発までの短期間に藤原清河は正四位下(二階位特進)に、副使大伴古麻呂は従四位上(四階位特進)に昇進させているのです。まるで真備の副使就任の辻褄を合わせるような昇進です。 
 朝廷には何故か、何としても真備を遣唐副使に押し込みたい思惑があったのでしょう。一説には政敵の藤原仲麻呂が真備の死を願って遣唐使にしたともいわれますが、真備はすでに太宰府にいるのです。いかに遣唐使が命懸けとはいえ、後の菅原道真のように太宰府で暗殺した方が確実で早いでしょう。きっとこの朝廷の思惑は藤原仲麻呂ではなく、時の女帝孝謙天皇から出ていたのではないかと奇想します。ですから後付けのような各人の階位特進も行われたのです。

命懸けとはいえ吉備真備を副使にするには不合理な遣唐使

孝謙女帝の密命「楊貴妃救出作戦」

 私の奇想では、時の孝謙天皇(女帝)が不穏な唐朝から楊貴妃を日本に亡命(あるいは一時保護)させるために、作戦に不可欠な吉備真備を急遽副使に据えたのではないのかと考えました。
 この楊貴妃救出計画の発案者は阿部仲麻呂であり、依頼者は楊貴妃の従兄弟、宰相楊国忠ではなかったのかと思います。正式な遣使ではなくとも、唐と日本の間には物流も情報のやり取りもあったでしょう。当然阿倍仲麻呂が日本の朝廷と連絡を取り合うこともあったのです。唐王朝の高級官僚でもある仲麻呂は当然宰相の楊国忠とも面識があるでしょうし、玄宗に愛される官僚として懇意かもしれません。
 そんな時、安禄山の不穏な動きを察した楊国忠は自分たちの権力の源泉である寵姫の楊貴妃を安全地帯に保護しようと考えたのではないでしょうか。まさか唐王朝が崩壊に瀕するとまでは予想していなくても、事態が落ち着くまで楊一族の命運を握る楊貴妃を一時どこかに隠すべきだと考えたのだと思いまます。その相談を唐の局外者で同じ玄宗の寵臣である阿部仲麻呂に相談しても不思議ではありません。
 阿部仲麻呂も日本への帰還を望んでいたので、楊国忠に対し交換条件として日本への帰国を要求したのだと思います。そして利用しようと考えたのが日本からの第12次遣唐使の一行です。計画発案者の仲麻呂は、唐での楊貴妃救出部隊の長に盟友である吉備真備を指名しました。仲麻呂の計画ではどうしても20年以上前に一度唐で暮らした実績のある真備が必要だったのです。仲麻呂からの計画提案を受け入れた孝謙女帝は、急遽真備を遣唐副使にしたのです。

日本最後の女帝である孝謙天皇(後に重祚して称徳天皇)は僧道鏡とのスキャンダルで有名

 理由は幾つかあります。まず世界情勢として不穏な動きの安禄山が遼東の地を占めると日本の安全が脅かされるかもしれないという危険性。同時に唐王朝の権力者、楊国忠に対し恩を売れること。そして何より唐に対して楊貴妃という重要な外交カードを得ることにもなります。また個人的にも楊貴妃に対して同じ皇帝妃としてその境遇に共感があったのかもしれません。側面では藤原仲麻呂の権勢を削ぐために橘諸兄側が動いたかもしれないでしょう。
 このようにして仲麻呂立案の「楊貴妃救出計画」が始動したのです。

楊貴妃が被った「吉備真備の娘」という仮面

 楊貴妃を一時的にも安禄山から匿うために利用したのが日本からの遣唐使一行です。普通に考えれば外交使節である遣唐使には、いかに唐の実力者安禄山でも手出しはできません。それを隠れ蓑にしようと阿部仲麻呂は考えたのです。唐の国法によると皇帝の許可なく国外には出られません。ただ例外規定があります。留学生などの日本人男性と唐人女性の間に生まれた娘は、日本人である父親の所属として一緒に国外に出ることができたのです。
 もし吉備真備が20年前に長安で唐人女性との間に娘を成していれば、一緒に国外(日本)に出ることも可能なのです。つまり真備の娘は遣唐使の一行に含まれるので唐の国法に縛られず日本まで行くことが可能になります。
 ですから20年以上前に唐にいて長安に娘がいても不思議ではない真備が必要だったのです。しかも遣唐副使の娘となれば安禄山は手が出せません。吉備真備の娘という仮面を被った楊貴妃は堂々と国内はおろか国外にまで一時退避できるのです。
 これが阿倍仲麻呂の考えた「楊貴妃救出計画」の第一段階(保護)でした。そのために阿倍仲麻呂は絵巻物では生き霊や鬼となってまで真備を助け、安禄山の魔の手から真備や楊貴妃を守り抜こうとしたのです。安禄山もこの楊貴妃救出計画を知り、なんとしても真備の邪魔(暗殺も含め)をしようとしたのではないでしょうか。その水面下での攻防戦が吉備大臣入唐絵巻に暗喩的に描かれた安禄山の無理難題なのでしょう。

楊貴妃亡命とその後の運命

 吉備真備の娘として楊貴妃は、安禄山に邪魔されることなく第12次遣唐使一行とともに日本帰還のために向かった唐南部、明州・寧波の港まで無事に辿り着くことができたと思います。多分阿部仲麻呂の当初の救出計画ではこの明州で楊貴妃は事態が収集するまで隠れているはずだったのです。従兄弟の宰相楊国忠はきっとこの間に安禄山を始末(暗殺)するつもりだったのかもしれません。

南方の明州の寧波は安地帯で、唐と日本の窓口になった港町

 しかし事態は思わぬ方向に急展開します。
 楊国忠による安禄山暗殺が失敗したためか、安禄山は突如武装蜂起し燕国を建国します。そして洛陽、長安にまで進軍するのです。玄宗は長安から逃走し、楊国忠や楊一族は殺されてしまいしました。楊貴妃は例え明州で隠れおおせても、もう帰るべき場所も家族も失ってしまったのです。
 ここで楊貴妃は選択を迫られたのです。玄宗皇帝の元に赴き命運をともにするか、それともこのまま吉備真備の娘として遣唐使一行とともに日本に向かうのか。楊貴妃は最後には日本への渡航を選んだのだと思います。ここで阿倍仲麻呂の「楊貴妃救出計画」は急遽第二段階の「亡命計画」へと変更されたのです。
 実はこの時、阿倍仲麻呂もまた遣唐使一行と共に明州まで来ていました。それは遣唐使と一緒に日本に帰還するためです。史実としても阿部仲麻呂は正使藤原清河とともに第一船に乗船、副使大伴古麻呂は第二船に、副使吉備真は第三船に乗船しています。
 しかしここでも驚きの歴史的事件が起こります。副使大伴古麻呂が唐僧鑑真を秘密裏に第二船に乗船させていたのです。正使藤原清河は反対したと伝わっていますが、副使大伴古麻呂は強引に鑑真の乗船を果たしたのです。きっと真備同様に大伴古麻呂には孝謙女帝より鑑真渡海の密命が出されていたのでしょう、だから正使藤原清河の言葉も無視できたのです。「第12次遣唐使は少し異例な遣唐使」と私が奇想したのは、「鑑真渡海計画」と「楊貴妃救出計画」の二つの密命が同時に孝謙天皇から発せられていたからです。
 第三船に乗る吉備真備にも不思議な伝説が付き纏います。それは「真備が第三船に九尾の狐を乗せて日本に連れ帰った」という伝説です。九尾の狐は美しい妖狐で、中国では殷王朝を滅した妲妃として、日本でも鳥羽上皇を誑かす玉藻前として国を滅ぼす美女に化けた傾国の妖狐です。傾国の妖狐(美女)=楊貴妃という連想がここでも成りたちはしませんか。
 そしてもう一つ伝説があります。真備はこの船で「金烏玉兎集」という陰陽道究極の秘術書を日本に持ち帰ったといのです。実は楊貴妃には玄宗の後宮に入る前に道教の女道士であったという記録があります。つい先ごろにも中国において楊貴妃を指南したという道士田貴の墓誌石板の拓本から「楊貴妃に三皇宝録という道教聖典を授けた」という一文が発見されました。つまり楊貴妃自身が貴重な道教聖典と同じだったのです。私には真備が日本に連れてきたという「九尾の狐」や「金烏玉兎集」が楊貴妃を暗示しているように思えてなりません。

吉備真備が連れ帰った九尾の狐とは傾国の美女楊貴妃だったのか

 無事に寧波の港を日本に向けて出港した遣唐使一行でしたが、その後の運命は大きく異なっています。第一船は難破して安南(ベトナム)に漂着します。正使藤原清河と同船した阿倍仲麻呂は助かったものの、そこから唐の長安に戻り客死しています。仲麻呂はついに日本への帰還を果たすことが叶わなかったのです。
 第二船はなんとか沖縄にたどり着き、島伝いに移動して大和の朝廷に帰還します。そして鑑真も大和にたどり着きその後の日本仏教発展の原動力となるのです。
 第三船は屋久島に漂着したものの、吉備真備は無事に日本に帰還しました。彼の手にしっかりと抱かれた九尾や狐や金烏玉兎集があったかどうかは謎ですが。

楊貴妃来訪伝説と真備の娘「吉備由利」の登場


 楊貴妃の日本来訪伝説として最も有名なのは山口県長門市にある二尊院でしょう。そこには阿部仲麻呂とともに日本に来たという楊貴妃の墓があります。それが嘘か真かはわかりません。本当にこの地に隠棲して、遠い唐の地を懐かしむ日々を送っていたとしても、それはそれで楊貴妃にとって穏やかで幸せな人生だったかもしれません。

楊貴妃伝説が残る山口県長門市の二尊院
二尊院にある楊貴妃の墓と言われる仏塔

 しかし私にはまた別の奇想があります。それは歴史の中に突然のように現れる吉備真備の謎の娘「吉備由利」の登場です。この吉備由利こそが楊貴妃の日本での姿だったのではないでしょうか。
 吉備由利が歴史に登場するのは恵美押勝の乱鎮圧後の764年9月の記録です。この時従五位下から正五位上位に昇進した吉備命婦として正倉院文書に登場します。そしてこの後も吉備由利の昇進は続きます。
 767年に正四位上、768年には従三位、770年後宮蔵司の長官、尚蔵(今の内閣官房長官)に就任します。常に時の称徳天皇に近侍して、生活から取り次ぎまで全てを取り仕切ります。この時の称徳天皇とはかつての孝謙天皇が重祚した天皇(同一人物)です。私の奇想では楊貴妃亡命命令を出した張本人です。
 もし楊貴妃が遣唐使とともに日本に来たのならそれから10年が経っています。この10年をどう考えるかは様々です。唐より日本に来て全てが目新しく、言葉から生活習慣、制度や作法まで新たに学び直さねばなりません。そのための10年と考えても良いし、また仮の父親吉備真備の政敵である恵美押勝(藤原仲麻呂)が乱で滅びた後(764年)なので、表舞台に出やすかったのかもしれません。ともかくこの恵美押勝の乱以降から吉備真備と吉備由利は称徳天皇に大変に信頼重用され、常に称徳天皇の側にいたと伝えられています。この後吉備真備は正二位、右大臣にまで出世します。学者から右大臣にまでなったの以降の世でも菅原道真だけです。また称徳天皇が病で倒れた時には吉備由利一人だけが近侍して、諸事をすべて天皇に替わって奉宣していたともいいます。恐ろしいほどの信頼関係です。
 もしこの真備の娘とされる吉備由利が本当に楊貴妃だったとしたなら、称徳天皇が信頼した理由も分かります。自分が亡命させ命を助けた相手であり、また一国の亡国を経験した妃でもあります。称徳天皇にとって楊貴妃は最も話と悩みが通じる相手であり、酷似した人生を歩む友人といっても過言ではないかもしれません。ちなみに称徳天皇と楊貴妃は一歳違いのほぼ同年なのです。

吉備由利が楊貴妃だったかどうかは、称徳天皇と由利だけの秘密になった

 吉備由利が最後に昇った官位である従三位は女性がなかなか昇れる官位ではありません。女性で従三位になった人物のほとんどが天皇の皇后です。いかに功臣吉備真備の娘とはいえ、女官としては高すぎる官位です。ただもし称徳天皇が吉備由利の正体を唐王朝の貴妃であると考えていたなら、皇后並みの官位である従三位を授けたことも頷けます。ただそれとても今となっては時の彼方の謎となってしまいました。今ここに語ったのは私が奇想した楊貴妃に歩んで欲しいと願った人生の一つなのかもしれません。


《伝説の余白:安倍晴明と空海の誕生》

 楊貴妃の生存伝説の奇想は終わりましたが、この話には続きが少しあります。
 日本には帰ってこられなかった阿部仲麻呂ですが、日本に帰還した吉備真備は仲麻呂の一族を訪ね、唐での仲麻呂の様子を伝えたといいます。その時に持ち帰った陰陽道秘伝の「金烏玉兎集」をこの一族に譲ったともされています。そしてこの阿部一族から後に出現するのが平安最大の陰陽師安倍晴明だというのです。もしかしたら真備は自分の持つ陰陽道の知識と楊貴妃から学んだ道教の秘術を伝えたのかもしれません。安倍晴明が幼くして百鬼夜行を見抜いた術は、吉備真備や楊貴妃から伝えられた秘術だったのかもしれません。実際、安倍晴明には吉備真備から「金烏玉兎集」を譲り受けるという伝説や物語が語られています。

安倍晴明は吉備真備の後継者か

 また吉備真備が左遷先の太宰府から平城京に戻ってこられるのは恵美押勝の乱後、764年に造東大寺長官になってからなのです。そして真備が作った東大寺の別当(長官)には阿刀大足という人物がなります。阿刀氏は橘諸兄政権で盟友であり留学生仲間の僧玄昉の出身氏族ですが、同時に空海の母方の氏族でもあります(父方は佐伯氏)。そして空海はこの叔父である東大寺別当の阿刀大足を頼って平城京に上り、都の大学に通いながら東大寺所蔵の万巻の書を読み漁り、後に異才ともいえる活躍の基礎を学ぶのです。つまり吉備真備が作った東大寺を起点にして後の密教の元になる呪術や唐の知識にも触れたのです。空海もまた第18次遣唐使の留学生として唐に向かいます。そしてわずか2年ほどで密教の全てを吸収して日本に戻ってくるのです。その異様な密教吸収の根本には、東大寺で学んだ吉備真備の陰陽道と楊貴妃が残した道教の知識があったからなのかもしれません。

空海が基礎を学んだ東大寺もまた吉備真備の造営

 結局、吉備真備の陰陽道と楊貴妃の道教がなければ、後の世に最強の陰陽師安倍晴明も、最高の密教僧空海も生まれなかったのかもしれないのです。吉備真備と楊貴妃が日本の呪術界に与えた功績は計り知れないものがあります。


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